何が起きているのかわからない 識に触れる その5

言霊ブログへようこそ。

 

難しいことを簡単に書いてこそ、読み応えが出て来るってものです。

難しさを紐解く面白さを持つ人って、頭使うの好きなんだよね。
難解ほど燃えるの。

でも、そんな人ばかりじゃない。

感覚派からしたら、文字さえ読めないからね。

でも、文字からしか情報がないから、仕方なく読んでいるって感じなんだよね。

ここに霊性開いて、感覚を取り戻せたら、文字を読みながら文字以外の情報を掴み取れたら良くない? 文字の中に様々な思いがあるのよ。それを感じ取ろうとしないから、誤解が誤解のまま放置されるの。

 

生産者
1.眼識は「モノが話しかけてくるの」という感じ。
2.耳識は「そうとしか見えんし」という捉え方。
3.鼻識は「やっぱりね」という感覚でしかない。
4.舌識は「一緒一緒」という居心地の良さ。
5.身識は「染まるもんや」という当たり前の発想。
6.意識は「関わり合い」という距離感。
7.末那識は「触れて欲しいけど触れて欲しくない」もどかしさ。
8.阿頼耶識は「行き着く先は一緒よね」って安心感。
9.阿摩羅識は「もう♡」と言えるわけないじゃないという秘匿したい心理。
10.乾栗陀耶識は「それは言わない約束よ」として明かさないもの。

なーんて、感じになるの。
説明も何もないでしょ。
この感覚的な表現で「掴め」というものです。
しかし、この方が入ってくる感覚を持つ人も確かなことで、「え、それのことを識って扱うの?」ってなものです。

 

そうそう、そういうのなの。
当たり前に普段から使うんだけど、そこにフォーカスしたまま良い方に解釈を繰り出すならともかく、悪い方に解釈を繰り出すと、それはそれでねじ曲げられた事実として記憶することが出来るのね。

臆するというと、月編に意と書くね。
憶するというと、立心偏に意と書くね。

 

月という字が、気の流れを象徴する文字なんだけどね。
身体の部位はみんな月編でしょ。
腑とか、腰とか、背とか、みんな月がつくの。

これは気の流れを留めるって意味があってね、どこに溜まるかが示されているのさ。

んで立心偏は、よく心として扱われるけど、事実と違う時に当てている偏だったりする。

だから記憶は基本的に事実と異なることを指すの。

本来は記億の「億」の字を当てるものです。

この億って字の、人偏は、人を指すのではなく、そこにあるものを指すの。
でも、今の時代は歪められた解釈が一般化してしまっているから、こんな事を私が文字から伝わる表情を説明したところで意味がないのね。

だから記憶から記億に置き換える作業が必要なんだけど、それをブロック外しだとか、浄化だとか、傷はなかったんだと悟ることだとかしているの。

 

それを読み解く力として識の使い方が欠かせない訳なんだけど、霊能力とか霊性とかって怪しすぎるし、訳判らないから、騙されたくないって心に従って遠ざけたのね。それがトドの詰まるところ自分を見失うことになるとは思いもよらないのさ。

 

んで、自分の感じ方を絶対視したあげく、我が子や、親に冷たい扱いを受けることになるの。愛するパートナーに苦しめられるとかね。自分が騙されたくないって遠ざけた力を、再び求めなければならない屈辱感が、苦しみを増すの。

 

 

例えばさ、これを読んでいるあなたが、過去世で釈迦(仏陀のことよ)とか、イエス・キリストとか出会っていたら、その人の話しを過去世の自分は素直に聴けるのかどうか想像してみたらいいってこと。私なら、絶対に楯突く自信がある。絶対言う事なんて聴かないから。目の上のたんこぶみたいに感じるに違いないもの。もし、素直に聴けると信じて疑わないなら、余程のバカとしか言いようがないくらいの愚か者だよって教えておくね。

 

その従えない気持ちに気づかせてくれて、それでは人を尊ぶとか、人に優しくするとか、人を許すとか、自分にないことを教えてくれた人って気づいたときに改めていける。だから、まずは不快感に染まり上がるに決まっているの。

 

そんな事も考えが及ばない人が、自分を愛するとか、人に愛される人になるとか、チャンチャラおかしいってことをこのブログでは書いているのね。

 

だから記憶間違いしているものを紐解くのに識を正しく使って、自分の捉え違いを自身の力によって正していく流れによって本来の自分に還るとか、自身を知るとかになるの。自分を知る旅って人生は説いている人もいるけど、それをするかどうかは自分次第よね。

 

そして私も自分でこの世界をこのままにしておきたい訳じゃないから、出来る限りのことをしているまで。こうした解説だって、その一環。どうやってら苦痛しか感じない知識というものを、苦痛なく伝える方法を模索しているに過ぎない。失敗の連続よ。

 

生産者は、自分の本心を隠して、人の本心に触れたがる卑怯者だったりするのよ。
だから、グサリと刺さる言葉を放つ人を敵対して、責め立てて、善人を悪人扱いする名人なのね。親でも先生でも、「傷つけられた」って言えば、被害者になれるでしょう? そして周りを取り込んで、多数を掌握すれば、善人という少数を撃破出来るから。それが繰り返されて日本という歴史が出来上がっているとしたら、本当に「善人」として姿を現せる人っているのかな? って考えたらいいよ。

 

どこの世界に、あなたの目を逃れて善人でいられる?
あなたは、すぐさま、人の欠点を見つけて「騙された」とか言わない?
「裏切られた」とでもいいよ。
親類縁者に「苦しめられた」と表現するなら、あなたは間違いなく被害者の立場でしょ?
相手が「良かれ」として関わったとしても、あたなが「悪かれ」として受け取れば、相手を加害者扱いに出来るじゃない。決して、善人として扱わないよね?

 

そんなことしたら、自分で自分を懲らしめなければならなくなるから。
そしてもし、それに気づいて自身で懲らしめているとするなら、今の心の苦しみは、既に自分が悪人だと気づいた上での罰だと立証しているってことになるよね。

 

笑顔の裏に、人には見せられない姿を隠し持っていながら、どのように扱われたいの?
醜い姿がバレバレだったら、笑顔で誤魔化すことが出来ない人が居たら、その人はあなたをそのままの姿として見てくれる善人だと思える? あなたの笑顔にコロッと騙される人たちは本当にあなたの望む「善人」なのかしら?

 

自分の姿に気づきたいなら、「空と真が織りなす表裏構造」という講座に出てみるといいよ。愛の片鱗が見えるから。

次は青森の弘前市であるよ。

参加の動機なんてね、「行かなければわからない」という価値感さえあれば十分なの。

予測しないで動くことが出来なければ、意味ないから。

 

全く意味ないから。

 

何かが掴めるという確信があって動くなんて、猿でも出来る。
予測や限界を越えた世界を覗くなんて、どうやったら出来るかなど考えようともしない。

だから、豊かになれないの。

 

 

自分の姿が見えるといいね。

 

 

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