う〜ん、わかんない -感覚- その3

う〜んわかんない -感覚- その1  好きにしていいよ -教える-
う〜んわかんない -感覚- その2  “わかる”って感覚がわかんない -知覚-

細かく解説を加えようとしたら、そのボリュームの多さにたまげました。
順々に話していこうか。

霊性に限らず、わたしたちが何気なく使っている「感覚」という言葉の定義が、どれほどいい加減な知識に支えられているのか、解明していこうって魂胆ね。

世の中、左脳中心の社会になってしまっていて、右脳派にとっては大変生きづらいもんです。
自分たちも感覚を重視している割に、それを人のせいにして、「口答えするなぁ」と、自分がうまく説明できない程度の低さを、年齢や肩書きが上だからって、責められちゃう訳ね。
うん、それ、でもとっても大事なこと。
年齢も肩書きもさ。いるんだよ。識別としてはね。
そしてそれにしがみつかないといけないのも。
でもね、そのように見えているこっち側に問題があるって気づかないと、問題の根幹に辿り着くことも出来ないし、意識を高めるとか、解釈を改めるとかって出来ないでしょ?

そうなんだよね。

こうしてさ、何かの縁でもって、この記事に辿り着いて、まぁ、「読んでみようか」って読んでくれているのも有り難い限りなんだよね。うちは別に儲けようとか、自分の生活をより良くしようとか、そんなことむしろどうでもよくなって全部手放していったら、色んな事がわかるようになったから、楽しんで書いているに過ぎないの。

それでも、まぁ、多くの人に読んでもらったら、何が起きるのか楽しみだというのはあるよ。

 

何が言いたいかって、「読みに来る姿勢が変化を呼び込む」ってこと。
それも感覚が働いての事なの良ってものさ。

心のすれ違い、言葉の行き違い、思いの行き違いによって、コミュニケーションがうまく働かずにいる訳でね。どこをどうしたら、整えていけるのか? って模索していたら、結局は解釈が狭すぎるってオチが見えて来て、言葉の成り立ちを改めようって思ってやりだしてんの。

 

霊性とか怪しいだろ?

 

でもさ、その「怪しい」と感じる感覚の、感覚って意味知ってんの?
ってことで辞書と比較して独自解説を展開してんのよ。

 

まぁ、興味あったら、読んで行ってみてな。

元々は、「教える」って、定義が間違ってないか? って突っ込みだしたら、それを捉える知覚ってもんが、何なのか? ってなって、その知覚を捉える感覚ってものが、なんなのよ? ってなって、こんなことしてんの。

「1+1がわからない…」強迫神経症を救ったたった一言の言葉

この記事がひとつの切っ掛けでもあるけどね。

そもそも「1」って何よ!

いい問いだ! これ、とっても大事。
何故、そもそも、ひとつの数を数える為に「いち」と定義されているのか? そのように言葉を与えたのか。そんなさ。根源を問いかける心の使い方が出来るって凄く大事なわけよ。

そりゃ、今、問いかけてもいないから「知らない」で「1」って使っているよ。

まぁ、そんな子供じみた質問で「感覚」って何? って辞書引いても納得出来ないから、自分で創り出してみてんの。

 

 

感覚

2.心を動かした先の違いを「見る」「聴く」「嗅ぐ」「わかる」「触れる」「知る」「やる」「正す」「とめる」「動かす」「変える」もの。

「見る」には、1.止る、2.智る、3.現る、4.二る、5.口る、6.知る、7.見る、8.視る、9.観る、10.看る、11.相る、12.艮るという字があてがわれ、それぞれ見るものが違うことを示す。どの字も「みる」と読む。

前回は、「1.止る」だけの解説で終わった。
今回は、「2.智る」を解説していくね。

「2.智る」は、わからないもの、見つからないもの、どこにあるかわからないもの、知っているのに知らないもの、知っているのにそれとは違うものの違いがあるときに、生じるもので、「心地悪さ」で感じるもののことを指す。「心地悪さ」良くないものとして解釈している場合、改善していく発想が生まれるものだが、「心地よさ」悪いものとして解釈している場合、悪化させる発想に取り憑かれて、問題を生じさせることとなる。

「智る」というものは、「既にあるが違うもの」を捉える力で、それを説明出来ない未熟さを自身に合図として送り届けてくれる生体機能である。この生体機能は「誤った知識」によって容易く停止させられ、現状を回復することより、現状維持に努めようとする働きがある。

多くは「考えるな感じろ」という言葉に執着すると、自分の「心地悪さ」はその感じ方を改める為の信号として受信しなければならないものを、回避するものとして受け止め、感じ方を麻痺させてしまい、周りに溶け込めないものとなる。また、「考えずにやれ」という教えも、この機能を混乱させ、改善の道筋が定まらないまま踏み出すことを強要することで、悪化しか招かない結果を生み出すことにもなる。ただし、「正しい感覚」というものを、混乱している感覚に囚われている段階で与えることは出来ず、本人が「これはおかしい」と自身の感じ方と知識にズレがあることを認め、より良い方へと改善するときだけ、正常に機能し始めるものである。それには、物事を美しく見ることが不可欠であり、対人関係であれば、対象となる人物を「そのままを見る」ことで、相手を正しく捉え、悪く扱わず、導き手なら、手を引いてもらい、対等であるなら、頭を下げ協力を申し出てやればよく、物事を知らぬものであるなら、全てを説明して見せて与えればいい。

「智」とは「矢」と「口」と「日」で出来た「みる」力である。「矢」は、そのまま弓矢の矢であり、当たらなければどうってことないものである。いくら沢山の矢を射られたところで、体に突き刺さらなければ傷などつかないものである。つまり、言葉が刺さるなら、その言葉を放つ者は、傷つけたくて放っているのか? 聴き留めた者は、傷つきたくて刺さりに行ったのか? それぞれの立場において自身の出来ることがあり、それを実践しないから傷ついたままにしているのか? と意味するのである。正しい感覚を持ち合わせているなら、言葉で傷などつかないことを前提にしているのだ。傷つくことを前提に知識を積み重ね築くことと、傷つかないことを前提に知識を積み重ね築くことと、そのどちらも合わせ持たせて、表現していく知識を積み重ねて築く事との差を、この智る力で養うものである。

「口」は、持ち合わせている「中身」を指し、顔についている口のことをいい、口の中に何もかも、臓物など大切なものがあるだろう? といった意味での「中身」である。その臓物がないなら、矢も当たるまい。ということである。大事にしているなら、隠し事をしなければ当たりもしない。隠して大事そうにするから、矢に狙われ、当てられる。よって、知は、知らなければどうってことないし、知ったところでどうってことのないようにするものの意である。

智には、知に、「日」がついているが、この「日」は「陽」とは全く別の意味合いを持つもので、「口」が二つ縦に並んだものとして捉えるものである。「日」の上の「口」は、見せかけの中身であり、下の「口」は、あっても人には見せない中身のことである。二枚舌とも、二心とも呼ばれ、建前と本音といった解釈を当てるときに使うものである。上の「口」で言った言葉が本当であれば、下の「口」でも矢は当たることはないことを表す。対話する相手が「嘘をついているな」と感じる心があるなら、改善する為には、「嘘だと感じていますが、この感じ方は正しいですか?」と尋ね返せばよく、それが出来ないなら、本音を隠しているのは自身の方であり、自身が二枚舌を使う嘘つきであることを自身で立証するものだと気づける。二枚舌を自発的に使う感覚があるなら、その心根が何かぐらいは承知しておくもので、中身が見つかったら和解するなら、見せていけばよく、隠すことに意味はない事になるから、「あなたの為を思って」などとは、自分を改めたくないだけの方便となる。

「智る力」は、こうした、「心地悪さ」を感じとるとき、その感じ方に従わないことが大切であり、修正に努めるしか手立てはなく、誤解をしているのは相手ではなく自分の方だと自らが変わってみせる必要がある感覚の使い方となる。今持ち合わせている「中身(知識、条件、解釈、定義、実感)」に対して、「異常」を伝える機能であることを知らせてくれるものを「感覚」という。

智ることで、疑問が生まれ、考える力が養われ、見たままではないことを受け入れ、改めていくことが出来、心はより良い方向へ動き続けているものである。主に「雰囲気」などに使われ、空間的なものを読み取る時に「智る」ものであり、その本質は改善する力のことを指す。事実を捉え、それをより良くすることで智が知に高まるものである。自身の言葉に感覚を言語にすることで、感じ方が周りの人たちと一致しているのか確かめていくことが出来る。より大勢の人を頷かせることが出来れば、本音と建て前を使い分けるしかなくなり、困り果てている人にも届けてあげられる言葉を持つに至る。「感覚を研ぎ澄ませなさい」とは、3つあるうちの1つである「智る力」のことをいう。

言ったことが伝わらない、聴いているけど受け取れない。
智で放ち、智で受け取られる。智で放ち知で撥ね除けられる。知で放たれ智で受け取る。知で放たれ智で撥ね除ける。知と知の会話に智では加われない。見る力は、智を知ることがはじまる。自身の持ち合わせている中身を探るのも智の力である。心を疑いなさい。その心の目が智る力を育みます。それが感覚というものである。

 

 

だはぁーっ、長ぇ。
あーた、人に説明しようとすると「智る」だけで、こんなになるんよ。
広辞苑とか、すんごい辞書でも書いてられんよ。んで「口」の中の「中身」ってさ。「知識、条件、解釈、定義、実感」なんて出しよって、またそれぞれ、知識とはなんぞ? 条件とはどういうこと? 解釈ってのは? 定義って何? 実感は? はぁ? ってなもので、言葉を追いかけていくと、途方も無く広がるの。

それを感覚という曖昧なもので誤魔化しているから、頭が悪くなるって話しをしたいんだよ。

 

賢くなる為に、感覚を取り戻していくことが必要だけど、「霊感無いし」っていきなり諦めるなぁ! ってことよ。

みんなさぁ、出来ない愚図な主人公が、何かを切っ掛けに出来るように変わり、勇気を持って挑み始めてた成長冒険物語とかって好きじゃない?

 

自分の人生でやんない?

 

 

ほら、これ、きっかけ。

ここから、自分の感覚切り換えてさ。
二元の世界に生きているだけじゃなく、この現実こそ、面白い世界に変えて行かないと!

 

って思うんだけどね。

まぁ、届く奴だけ届いてくれ。

 

何話になるかわからんが、書いてみるさ。

 

 

神奈川の藤沢に滞在しているから、講座とか探して飛び込んでみや。

面白い奴に会いたいゾ!

 

 

自分よりレベルが高い奴が、あなたに悪いことをするはずがなかろう?
おまえが、弱い者いじめしたがる奴じゃなければさ。

 

 

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