う〜ん、わかんない -感覚- その4

好きにしていいよ -教える-
“わかる”って感覚がわかんない -知覚-
う〜ん、わかんない -感覚- その1

う〜ん、わかんない -感覚- その2
う〜ん、わかんない -感覚- その3

やりたいこと、したいこと、ただまっしぐらにこの道を走り続けているとさ、ふと顔を上げると、社会はえらい変わりようで、「みんなすげぇなぁ」って眺めていたりして。

霊性というか、動物的感覚とか、潜在意識の奥底のまたその裏側まで見られる力さえ持ち合わせたところで、要らないんだろうなぁって思ったりもしてたりするんだよ。分りにくいし、難しいし、手軽に簡単便利なんて言ってあげられないからwww。

そして歌でもダンスでも、レッスンして発表の場を創って、みんなに喜び与えて、表現性を磨き上げていく人たちを見てても、いやはや凄いなぁって思うのね。

でも、ついてくる人はたくさんいて、手にして掴み取りたいと真剣な奴もいて、可愛くて、頼もしくて、任せられて、今までにない充実もあったりして、面白いんよ。

そう、何だかんだ思ったところで、自分の見ている世界は面白いっ!

楽しい、面白い! が溢れている世界になってるのが凄いなって。www

 

 

そんな、感覚的な言葉を放ってみて、「感覚」を紐解いている最中だったりする。

感覚

2.心を動かした先の違いを「見る」「聴く」「嗅ぐ」「わかる」「触れる」「知る」「やる」「正す」「とめる」「動かす」「変える」もの。

「見る」には、1.止る、2.智る、3.現る、4.二る、5.口る、6.知る、7.見る、8.視る、9.観る、10.看る、11.相る、12.艮るという字があてがわれ、それぞれ見るものが違うことを示す。どの字も「みる」と読む。

「3.現る」とは、そこに何もないところから、あるものを思いつき、それが自身の知識と結びつかせ、形や言葉によって表される力の源を指す。一つのことに従事し、繰り返しそれに関わり、効率化や、改善化していく最中でより良くしたいと思うことで見えなかったものが見えてくる時に使われる「現(み)る」ものである。「良く見て見ろ」とは「良く現(み)て見ろ」とされており、見落としてしまうものさえも、見続けることで現(み)つけることが出来ることを示している。「ない」と思われているものも、深く観察し、「何かあるはず」といった心で捉え続けることで、「ある」を見つけ出せるものである。それには、一見して全く関係のないものを見ることにより、関連し合う力の関係性を言葉や思いにすることは出来なくても現(み)えており、データを集計するなどをすることで、見えなかったものを見える化していく時の元となる感覚をいう。

「ちょっと現(み)てこい」などの使い方もされ、様子を見に行くものだが、普段見られない何かを見つけに行けという意味合いである。この場合、「観(み)る」感覚と誤解されがちで、「ちょっと観(み)てこい」と受け取られると、景観などを観て楽しんで来いとなると、様子を見て異変を知らせろという解釈とは違い、ただ見回ってきたとなることで、目的の趣旨が違うことになることもしばしば起きる誤解である。

「ある」はずのものが「ない」ように現(み)える場合、そこに覆われた「何か」がある為であり、普段から使わなければ機能しなくなるものである。人によって「見えないものが見える」場合、「見えないものが現える」と表され、生まれつきや体質とは違い、覆われた「何か」を取り除かない限り現(み)えるようになることはなく、また、当人も「現(み)たい」と思わなければ機能を回復することはないものである。そして現(み)ていてもしばらくは、ないしかわからないため、現(み)えて来るまで多大な労力を必要となり、確かめることもままならないものは、見えたのかどうか判別もつかない為、使うのをやめてしまうものでもある。多数が現(み)えないと、現(み)えている人からは、それを立証することが出来ずに、思い苦しむこととなり、現(み)ることを嫌い、やめることもある。

「艮(み)る」力と合わさることで、見えないものを「現(み)る」ことで、それを具現化する力となり、絵に表したり、言葉を重ねて相手の想像力と繋げて表現することが出来、実感させることも出来るものだが、概ね恐怖と結びつかせてしまうもので、忌み嫌われてしまうものでもある。想像と虚像の区別はこの現(み)る力が働いているかどうかで識別することが出来る。ないものを見るのが虚像で、あるものを現(み)るのが想像となる。

見えないものだから、「ない」と扱う事で覆われる「何か」は増していき、目上の者や、権威のある者がそうした態度に出てしまうことで、それに付き従う者までが「何か」に覆われて機能を低下、もしくは停止させていくこととなる。それにより、異変の前兆や、見えないものだからそこにあるものからのサインや、呼びかけなどに対応することが出来ずに問題を招き入れ、不合理なことを嘆かなくてはならなくなる。うまく物事が進まないとき、無理に推し進めようとするのではなく、一度退いて、何かあるとして、やり方を変えることや、心地良いやり方に改めるなどすることで、見えないながらも問題を受け入れ、回避することも「現(み)る」こととして扱う。見えていなくても、見えない何かがあると信じることで、そこから届けられる「体が不自然な動きをする」などのサインを受け取り、それに従うことで見えないものを感じ取り、体が自然な状態になるまで改め続ける道を見出す事が出来る。体の不自然な動きとは、「持っていたものを落とす。転びそうにないところで転んでしまう。何かに引っ張られる。振り向いてしまう。立ち止まってしまう。動けなくなる。呼ばれた気がする。考えが飛ぶ。目に留めてしまうものがある。」などがある。これらを祟りだとか呪いだとかとして扱う必要は皆無であり、見えない何かがあると受け入れ、見える世界と変わらぬように扱えば不自然さは解消されるというものである。部屋が散らかっているなら片付けるように、見えない何かが散らかっているなら片付ければ済むだけのことである。それを幽霊や怨霊として扱う必要はなく、退去していただくとか、話しを聴いてあげれば済むだけのことである。わからないものだから、大げさに扱い、混乱を増長させる人が後を絶たないのは、覆われた「何か」を紐解かない為である。

「何か」とは、知識の間違い、経験の誤解、権威への依存、心のわだかまり、不愉快さ、嘆き、悲しみ、恨み、憎しみ、怒り、責め、妄執、幻覚、決めつけ、怯え、否定、拒絶、自信、偏り、現(み)ない事などが挙げられる。現ることで、「何か」は取り除かれていくものであるが、不愉快さなど、不快感が全般に伴う為、重度の場合体が好転反応を極度に示してしまい、それを病状の悪化として認識してしまうため、回復には慎重さが必要となる。心の許容範囲を見ながら、整えていく必要があり、「滝、海(心地よい)、海辺、沢(清流)、山頂、大樹の根元、洞窟の奥底、なにもしないこと、眠り続けること、人と隔離すること、人に受け入れられること、全てを打ち明けること、ないと思わずあるとして心を現(み)ること」などが挙げられる。一般にストレス(苦痛)として認識され、それらを取り除かなければ現(み)る力は機能を回復することは少ない。

現(み)る力は、人が自発的に何かをしようとするときに思いつく力の源となる為、自分で考える力の土台となる。自分から何かをしよう。動こう。やっていこうとするものである為、本人が口走るものを無闇に閉ざさせると、心を閉ざすこととなり、機能が失われていくものである。どの言葉が許しで使われているのか、どの言葉が許されないとしながら使われるのか、見極める「現(み)る」力もこれである。「その言葉は言ってはなりません」というのと「どん言葉でも、何でも言っていいよ」と、不快な言葉さえ自由に言わせることで、当人は自分で言いたくないと感じたとき、言わなくなるもので、機能を失わせる弊害よりマシだと捉えることである。言葉の不愉快さは、「1.言って良い言葉、悪い言葉を教える」ところからはじまり、「2.相手が聴きたい言葉を選ぶことを教える」と高まり、「3.言われた言葉の全てを許し方を教える」に至り、「4.どんな言葉にも必要な場面があることを教える」と探させ、「5.相手が言えない言葉を言えるように自分が教える」という経過により自由な言葉を得るようになるものである為、禁止だけの教えに留めないことが大切となる。

言葉の弊害がなくなることにより、自由に「現(み)る」ことが出来るようになり、豊かさでもって心を広げて見ていられるようになる。「現(み)る」という感覚は、人によって見え方が違うことを受け入れ、その人が見ているものを現(み)て広げて行く為のものである。

 

 

これが、現る感覚を言語化したものだけど、何となくわかるかな?
この感覚が回復していない人には、皆目見当がつかないかも知れないけれど、洞察力だとか、観察力の土台となる部分の見る力だから、常識的、科学的の土台にもなるものなんだよね。科学的に計測出来るようになったら、認知は変わるかな。

 

みんなさ、誤解なく嫌い合わず生きていきたいだけなのにさ。
認識の誤りや、解釈の偏りで、嫌い合うなんてつまんないよね。

 

 

自分の感覚をもう一度改めて見たら?

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。