う〜ん、わかんない -感覚- その7

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感覚

1.差でわかるもの。
2.心を動かした先の違いを「見る」「聴く」「嗅ぐ」「わかる」「触れる」「知る」「やる」「正す」「とめる」「動かす」「変える」もの。

「見る」には、1.止る、2.智る、3.現る、4.二る、5.口る、6.知る、7.見る、8.視る、9.観る、10.看る、11.相る、12.艮るという字があてがわれ、それぞれ見るものが違うことを示す。どの字も「みる」と読む。

5.口(み)るは、1.回る、2.日る、3.目る、4.田る、5.口るとあり、どれも「みる」と読むものである。

2.日(み)るは、日という字は、口が二つ縦に並び、上の口と、下の口があり、上で捉えている「1.中身、2.内容、3.必要、4.全部、5.不要」(=以降“要言”と包括する)、下で捉えている要言が違うことを示し、相互に連動せず機能させられることを表わしている。心の中で、言いたくない思いがあれば、言わずに違う言葉を話すことが出来、言いたい言葉を呑み込んで、言いたくない言葉を話すことも出来る。「日(み)かねて、代わりにやる」という使い方をし、言葉では、「自分でやります」と言いながら、一向に出来るようにならず、周りを困らせている時など、出来る人がそれを見ていて手伝いたくなる時に見ていた見方のことを指す。自身では「本当にやる気がある」と思っていても、出来ていない現実がある以上、やる気だけではどうにもならない思いが隠されていることを表わしたものである。

嘘をつく、建前と本音と分けて使う、言っていることとやっている事が違う、話したことが伝わらない、正しいことを知っててしない、わかっていてワザと間違える、困らせたくて困らせているなど、自分の心が二重にあることを示す。言いたいことを言わずに置くことや、素直な気持ちを表に出したところ、それを許されない扱いを受けることで心の適切な扱い方がわからなくなり、心に振り回されるようになる。上の口の心、下の口の心と、それぞれがそれぞれの言い分があり、同時に話すと自分自身の理論が破綻するものであるが、当人はそれに気づいていないことを「見て日(み)ぬ振りをする」と言う。

「ほら日(み)なさい」と、自分の発言に対して忠告を無視するなどすることで、回避出来る問題を回避し損ねたとき、相手に認識の間違いを事前に気づいている時に使う字である。失敗を重ねてきた者や、知識に基づいて検証を終えた者からすると、わかっている人、わかっていない人の区別がつくことを表わし、その失敗した事実から、元より指摘してくれた人の言うことをそこから聴ける心に変れる感覚を持ち合わせている時に使うものである。事実を指摘しても、相手が聴く耳を持たないときなどは、日(み)ているところと、相手が受け取っているところが違う為に起きるすれ違い現象で、「どこ日(み)てんの?」といった使い方もある。この場合、「これこれこういうことでしょ」と双方に伝わるように言い改めることが出来、互いに納得出来ることが指摘する者の感覚が正しいことを示す指標となる。言っても聞かない、届かない、わからない、理解出来ない時などは、自分の感覚が日(み)えていないことを表わす。

何かを見比べて、その違いをそれぞれ説明出来ることを日(み)る力があるとし、表向きはこれこれ要言を持ちつつも、隠し持っているものとしてこれこれ要言を別に持っていることを周りに代弁して、誤解を解くために用いられるものである。見た目ではわからないけれども、隠された機能や能力などを見抜くことが出来る時にも用いられ、「日(み)えなかったわ」と言い、また「日(み)え日(み)え」とも言う。

見られて困る時に「勝手に日(み)るな」という使い方もあり、表には見せられない秘め事がある時に使われ、「嘘」が常態化しており、それを良くないと認識しつつも改められない時にも「日(み)ないで」と隠し事を良くないと知りつつ暴かれることを受け入れられない時にも使う。この、人を見て「日(み)見えている」人というのは、否定的ではなく肯定的であり、人を悪く想わずにいることであり、上下の歪みを正せるものとして日(み)る力がある時に使う。

日(み)るという見方は、A.良いものをより良くする為に見抜く時と、B.悪いものを隠していることを暴く為の見方と、C.正しいことを歪んで間違っていると認識してしまう見方と、D.歪んでいるものを正しいと捉えてしまう見方とがある。見え方、感じ方というのは、見ている者や、見ている対象によって変化するもので、それを日(み)えていない人に伝えることは困難極まりないものである。感覚を持ち合わせていない人に、感覚を伝えることは出来ず、言葉や態度でいくら説明しても届かぬものである。日(み)ている側として、A.共感している。B.責めている。C.嘘ついている。D.映し出している。という違いがある。また日(み)られている側として、A.信じている。B.苦しめられている。C.罰せられている。D.自分の姿である。という違いになる。また見る側はよくても、見られる側は歪むこともある。特定の人にしか出ないこともあり、他人が教えてもわからないものは、わからなかったりするものである。この食い違いを正していくには、自身の不利益を受け入れて行くことで共感を得、解釈を変えていく必要がある。

そもそも前提となる見えるものとしての前提認識が違うことにより、見間違うことが発生していることを自分の解釈の問題として扱えるかが鍵となる。

誰しも感じ方を信用してしまい、その感じ方こそに問題があるとは捉えないため、感覚について学んでいる知識の有無は、人との争いを生み出すこととなる温床となる重大な問題である。日(み)るとは、誰が見ても違う見え方をするものであることを示し、相手を理解し、共感しようとしない限り、わかり合えない特殊な感覚のことをいう。

 

 

ふぅ。また手こずりました。
わかるでしょ? 簡単に書けないこと。

でもこうして識別出来るようにすると、整理できていいよね。

それこそファイルにして持ち歩いたりするようにした方が良さそうだわ。

 

はぁ。ため息出るわ。進まん。

 

頑張ります。

 

 

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