う〜ん、わかんない -感覚- その8

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感覚

1.差でわかるもの。
2.心を動かした先の違いを「見る」「聴く」「嗅ぐ」「わかる」「触れる」「知る」「やる」「正す」「とめる」「動かす」「変える」もの。

「見る」には、1.止る、2.智る、3.現る、4.二る、5.口る、6.知る、7.見る、8.視る、9.観る、10.看る、11.相る、12.艮るという字があてがわれ、それぞれ見るものが違うことを示す。どの字も「みる」と読む。

5.口(み)るは、1.回る、2.日る、3.目る、4.田る、5.口るとあり、どれも「みる」と読むものである。

3.目(み)るは、口が三つ縦に並んでおり、「1.中身、2.内容、3.必要、4.全部、5.不要」(=以降“要言”と包括する)が含まれ、誰が見ても同じようにしか目(み)えないことを示す。どこからどう見ても、見間違いのないことを指し、これ以上見せようがないことを表わしている。

誰に対しても(A.同じ立場の者B.対立する立場の者C.中立の立場の者)同じ意見であり、意義を挟まない強さとされ、「目(み)る力」のことを「目力(めぢから)」とされ、見た目が全てと誤解されてしまい、誤解が広がる切っ掛けにもなるものである。そのままが見えなくなるのは、要言に対する相違を受け入れられないためであり、自身の稚拙さを覆い隠し、事実(自身の要言)を明らかにせず、相手も自身理解しようとせずにおり、誰をも不快なままにしていることが見えぬ者もいる。その為、「見た目が全て」として、a.誤解を生まない関わり方が大切とされ、b.嫌な思いを抱かせないことに努めc.目的の為なら何でもする姿勢を望まれるようになった。その為、相手に「目(み)る力」が備わっているかを確かめるため、a.そのままを目(み)ているのか、b.優しい心が育まれているのか、c.それしか方法がないことを見抜く思いやりが養われているのか、問いかけることがある。

a.そのままを目(み)る。
事例として挙げられるのは、聖職者がボロ布をまとって、街を歩き、慈愛ある者は恵みを与えたくなるものだと、無言で問いかけるものがある。托鉢などもこれに相当し、姿を見かけた折、自身の貧しさをそこに見出せる者ほど、施しを与える機会を与えられているとなり、自身へ問いかけられているものである。その者たちなどに、人を助けようとする心があなた自身の真の姿であると伝える力を指す。人を見て、不快になるのは、自身の心に不快な部分を残して隠しており、その姿がボロ姿に見て現れるものだとわかっている力のことを言うのだ。批判する心、責める心、許さぬ心などが表れたとき、我が身の愚かさだとわかるとき、この目(み)る力がもたらされるものである。

b.優しい心。
わざと、不快な行為や態度に出る者がいる。見識があるなしに関わらず、そうした言動をする人が居る。そのまま侮蔑の心が湧き上がるままに従うならば、自身を侮蔑したこととなり、心貧しくなることを知らせていることがわからない人がいる。不快な言動を目(み)るならば、その背景に何があるかを見透し、「何か事情があるに違いない」と汲み入れ、「何かありましたか?」と話しを聴こうとすることで、相手をより理解し、共感する道を探すことが出来る。不快な相手を遠ざけ、退け、痛めつけ、従わせることで、無理解なまま行為だけを改めさせようとする者がいる。無理解のまま行為を整えても、いずれ壊れるだけである。共に苦しみ理解出来る道を探すことで、相手の信頼を得られ、不快な行為や態度は改まり、心を入れ替える切っ掛けに繋げられる。相手は何も知らないだけかもしれない。「知っている筈」などという先入観を捨て、協力する姿勢で関わることで、優しい心が備わっていることが目(み)えてくるものである。いつでも自分の心をその場で改めていくことが出来る人なのか問い続ける心の目を持つ者が、優しい目を持つことになる。

c.それしか方法がない。
人の嫌がる事をする人がいる。それを見ると人は違う方法を教えるものだが、言う通りにならないで終わる。あらゆる手立てを使い、相手を不快に追いやり、言うことを聞くまで追い詰めるやり方をする。力に任せて従わせ、形だけを整えさせても、元に戻るか、逃げ出させてしまい、関わるほど悪化させることがある。目(み)えていないのは、そのやり方や見せ方しか手立てがなく、それに意味があり、その背景を知ることが出来たとき、相手を理解し、許し、受け入れ、信じ、勇気づけさせてから、改めさせることが出来るものである。人は見た目に振り回されるものである。しかし、それが自身の見る目のなさを表わしているものとなり、見えていないものを目(み)ようとしない限り、見えないものである。よく、「ものの見方を変えなさい」と言う人がいるが、「それしか見え方がわからないことを証明してみせよ」と言う人はいない。あたかも、自分はその見え方がわかると思い込んでいるだけで、その人がそんな姿で自身の目の前に現れる真意を知ろうとしないものである。目(み)る力がある者は、相手の為なら何でもする姿勢でいるものである。見た目より中身が大事という人が、中身を大切に出来ない時に、「言うことを聞こうとしても従えない者」が現れ、あなた自身の「見せかけの姿」として表れるものである。自分の事が見えていない人ほど、他人によって見せられてくるものである。愚かしく見える人が、自身の見捨てている心の姿だと見えるようになる目を見出せた者は、思いやる心が養われたとされ、「目(み)る目(め)」が持てたこととなる。人は一人では自身の姿に気づくことが出来ないことを教えており、「目は口ほどにものを言う」ように、他人の瞳の中に自分の姿を映し出すものである。自分の目の中に相手の心を通して自分の姿が見えるのであり、その者を見せかけだけで見る限り、見せかけの思いやりとして現れてしまうものである。思いやりは、持てない相手に持てるように変えて行くことでしか養うことは出来ないものである。「これこそが思いやり」と思う限り、何も思いやれていない姿が、他人を通して見せられていくものなのだ。何も見えなくする心が見せかけの思いやりのだと気づけぬ限り、「見る目」は養われない。この目は、思いやりのない目と、思いやりのある目の二つの目が重なり合うことを示しており、どちらの目で見るかは見る人の心によって定まるものである。「あなたの心は美しい」と目(み)ている限り、見られた相手は美しく変わるものである。見てもらえる目がある限り、自分自身が美しく変わらない筈がないものでもある。「私の心は美しい」と思える心が養えたとき、人はあなたを「美しい人」と言うようになる。そのようにしか見えないのだから。

顔にある二つの目は、何も見えない目と、全てを見ている目である。誰もが「その通りだ」と思える言葉を放ち、「そうしよう」と従える気持ちに変わり、「そうとは知らなかった」と受け入れて助けたくなるものであり、喜ばれることを見たい目である。「そうかな?」「そうじゃない」「それなら知らない」と全てを拒絶して見捨てたくなるものであり、悲しいことを見てしまう目である。目に映るもの全てが自身の心の表れであり、その違いを目(み)ることで、己の心をより美していくためにあるのが、「目(み)る力」である。

目(み)るとは、誰もが喜べるものを見つけ出し、より美しく、より正しく、より良くしていくと決めたときに見えてくるものである。

 

 

以上だね。

中々深いわぁ。深すぎて、ブロック外しにもなっているわ。

そうなのよね、「何でそんな考え方しか出来んの?」とか人に対して突っ込む人居るけど、「そんな風にしか考えられない道筋」を全部解明することが出来たら、「気づいてあげられなくてごめんね」ってなるから。

それを自分自身にもしてあげてって話しなのよ。

 

感覚として、見る力を紐解いているけれども、みんな見え方がわかっていないからね。改めようもないって話しよ。人の姿が自分の姿。知ってはいるけど、そこからどう自分を改めていけばいいかなんて分かりもしないってことよ。

 

ささ、また一つ見る目が養われたよね。
実践していきましょう!

 

 

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