一人っ子のつぶやき

一人っ子。
それは両親の愛を一身に受けるという、類い希なる存在。
って、今は一人っ子多いのかな?

両親の愛を一身受けるのは、結構、重いんだよね。
兄弟が居れば、そっちに目が行くから、私の重責を減らせるのに、と思ってた。
子供は私一人なんだから、私がコケれば親は悲しむ。
もし、兄弟がいて、そっちが私のできない事をして、それで親が悲しまないで済むならな、と。

全て、親が手を掛けてくれる。何でもやってくれる。
甘やかせる。
甘えて育った自分はいけないのだと思った。
甘えて育ったから、私は社会で通用しない、とどこかで思っていた。
だから、甘えてはいけない。これ以上甘えてはいけない、と自分に呪縛をかけていた。
ような気がする。
いや、そうなのだ。
これ以上甘えてはいけない。
だから、常にどこかで、私の体の中で、緊張が手放せない。

甘えてはいけない。
だからか?
だからそうなのか?!
私の人生が常に厳しいのは。
あんまり平たんで無いのは。
自分に甘い事を許してなければ、それは厳しい人生になるわなぁ。
自分でオーダーしてる。
甘えるような事はさせないでくれ!と。

実体は、すっかり甘えているのだけど、私自身が、私の脳みそが、甘えている事を認めない。
それは許されない、それはマズイ事、自分が甘えてるなんて認められない。
だって甘えてはいけないから。

これを掴んでしまったのは、もしかしたら、私の場合『成功体験を追いかけている』のかもしれない。
かつて、子供の頃、『一人っ子に見えないね』と言われた。
これ、自分がしっかりしてる、自分が”甘えん坊さん”じゃない事が証明された瞬間だったのかもしれない。
<甘えてはいけない>を考察した時、どこかで甘えた事に傷ついたんじゃないか?とトラウマ方面で探ってみたけれど、どうもピンとこない。そしてふと『一人っ子に見えないね』という言葉に、ちょっとした優越感を持っている自分を発見した。優越感を持つ=成功体験。
私、甘えん坊じゃなく、しっかり者として褒められる事に酔っていたのでは?
もう一度、褒められたくて、成功体験をもう一度味わいたくて、甘える事を、甘えん坊さんでいる事を拒絶していたのかも。
う〜ん。この理由の方が私の心にフィットする。
細かくに言えば、私の体の胃とか胸とかの辺りがスーッとスッキリする。

”甘えん坊”という事には傷ついていたのかもしれない。子供であるけれど、小さなプライドをザックリと傷つけられてしまったのかもしれない。
父に『甘ちゃんじゃの〜(広島弁)』と言われたのが堪えたのかもしれない。
父にしてみれば、健やかに社会で育って欲しい一念での言葉だったのかもしれないけど。
彼もまた、甘えては生きて行けないと思っていたのだろう。
これぞ家のカルマだ。

ここまで書いてみて、ちょっと気持が整理できた。
甘えん坊である自分が許せなかった。甘えん坊である事は、父に嫌われる、見捨てられる、という風に掴んでいた。
けど。大人になった今、それについて考察するならば『甘えん坊でも生きていられる』という知識を持っていて『死ぬより生きている事の方が親は有り難たがる』という知識も持っている。
立派に社会で生きて行くためには、甘えん坊である事がマイナスに思えるけど、死んでしまうよりはマシな事なのだ。
甘えん坊でも、それは別の言い方をすれば”世渡り上手”と言われて、今の私より、はるかに幸せな充足感のある人生を送っている事だろう。

ドラマ『カルテット』の最終回で『人生チョロかった!』と言い放った、アイドル崩れの女の子のセリフが心に残る。
人生はチョロいのに、勝手に難しくしているのは自分だった、っていうオチ。
いや、彼女の捨て身の努力があのセリフに結びついた。色々、含みのあるセリフ回しだったけど、心のどこかに『人生チョロいよ!』を持っていても悪くは無いと思う。
むしろ、持っていた方がいい。

”受け取れない”心理も、こんな所に起因してるのかもね。
この世にどっぷり甘えて生きても良いのに、それをすると何かバチが当たりそうな気がする。
甘える事に罪悪感を抱えていれば、なにか許されるような気がする。
甘えている事実を否定していれば、甘えていない事になるような気がする。
どこかで、受け取る=甘える事になっていて、受けとると何か悪い事が起こるような気がする。
“気がする”だけで、検証してはいない。
バチは本当に当たるのか?
悪い事は本当に起こるのか?

考え方を変えてみよう。
悪い事をしました。バチ当たりました。はい、一件落着。
“行って来い”で、1セット終了。
間違った事をすれば、それなりの事が返ってくる。返ってくればそれで終了なのだから、バチが当たったな、と思った時点で、何かマズイ事やっちゃったのね、と考えればいい。
どこで?とか、いつ?と考え出すとややこしくなる。
どうせ、取り返しはつかないのだから。
だったら、バチ当たりました。これで精算終了です。って、終わらせてしまえばいい。

どっちみち。
反面、良きことをして良きことが返ってきているはずだから。
この世は陰と陽、プラスとマイナス、等々、相反するものが両立して出来ているのだから、自分の中だとて、相反するモノが両立しているはず。

結局、甘えん坊は良くない、という考えは、一方からしか見ていないという事で、場合によっては、甘える事で全てが良き方向に流れる事もある。
だから、甘えん坊に、善し悪しは無く、決めつけているのは自分。

しっかり者、という言葉に優越感を感じ、成功体験を得たのだ。今度は反対側(と私が思っている)の甘えん坊というやつに優越感を感じ、成功体験を得てみればよいのだ。
これが、人生を反転させる、とか、世界がひっくり返る、という表現に相当する事なのだろう。
そう思えば、甘える事に躊躇が無くなる。
これで、やってはいけない!と禁止事項ににしていた“甘えん坊”になる自分を認め、認めたからその存在を許し、許したからこそ愛せるようになる、というプロセスを得られた気がする。

こやって、つらつらと自分の思いを書き連ね、どこに執着していたのか紐解いていくと、だんだん体が楽になってくる。得体の知れない緊張感が溶けて行く。

私の場合、執着の原点は、何らかの形での『成功体験』を追い求めている気がするような気がしてきた。
あの、極上の体験を再び!
これで成功したから、今度も同じやり方で!と芸の無いことをやっているのかも。
成功体験、褒められる喜びをもう一度味わいたくて。
もしくは成功を、褒められた事を維持したくて。

褒められて喜ぶ、裏を返せば、自分に自信が無くて、自分ではダメだと思っているから褒められて嬉しいのだ。
そもそも、自分に欠けを感じていなければ、褒められる事に、そこまで執着しないだろう。
褒められたところで一喜一憂する事なく『当然の事をしたまでです』とあくまで冷静だろう。

私に欠けている所は無い。
長所や短所、未熟な部分も多々ありますが、だからと言って、何一つ欠けている所は無い。

な〜んだ。私は何も欠けていなかった。最初から完全体だった。
私が私を責める必要など、どこにもなかったんだな。
な〜んていう思いに至った所で、この考察はおしまい。
お付き合い、ありがとうございました。
私は一人で完全体でした。

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。