どうして人は怒るのだろう?

人は怒る。
訳もなく怒る。
顔を真っ赤にして怒る。
喚き散らすように怒る。
必死に怒る。
意味もなく怒る。
悪化するだけなのに怒って自滅する。

バカだとしか言いようがない。
そうバカだ。

バカは馬鹿と書くらしいが、どうやらこれは「馬」と「鹿」の区別さえつかぬほど、見たままを差異を識別出来ないことを言うらしい。識別能力が欠落している人に、識別しろというのも馬鹿なこと。必死に説得しようとも、解説しようとも無駄骨を折るというものだ。愚かしいが、人は人を放っておけないものだから、つい、親切心で手を差し伸べる。

「馬鹿にしやがって」
「していないって」

「馬鹿にしたくせに」
「していない」

これも馬鹿なやり取りだ。
相手の主張を信じない以上、確かめた意味がない。

このやり取りなら、「馬鹿にしやがって」と言った方が、馬鹿だと自分で証明していることになる。
病む得ないものだ。本人にしてみたら馬鹿にされた感が拭えないのだから、言った相手の責任にしておかなければ、自分が本当に馬鹿だと証明してしまうことになる。

馬鹿な人は、自分の予測した解答以外は受け取らない。
予知が正しくなければ、否定しづければ、予知が外れたことにはならない。
解説するほど馬鹿らしいことはないが、予測した内容が外れている。という事実が明らかにされているにも関わらず、それを「嘘つき」などと言って、受け取らないのは「事実」を「嘘」と言い、「嘘だ」を「いや事実だ」と言い合っているようなもので、これを馬鹿だというだけなのだが、解説したところで馬鹿がこれを理解することはない。馬鹿だけにな。

まさか、世の中「うま」「しか」を見間違えるほどモウロクした人が存在するとは思わぬものだが、本気で「うま」を指さして「しか」とのたまう連中がいるのだ。

言い直してわかりやすく表現するなら「愛している」と言葉で伝えている親がいるにも関わらず、「愛されていない」と言い張って譲らない子がいるということだ。まぁ、我が子に「愛しているよ」などと、小っ恥ずかしいことを60や70歳過ぎた親が30〜50過ぎた我が子に言うこともないだろうが、確かめないから永遠に親に愛されていないと思い込む馬鹿がいるって話しだ。

実際、親が子をどうやって愛していいかがわからない親だっているからな。
それでも、口べただろうが、接触下手だろうが、今日まで子供が生きているという事実が何より「愛してきた」という証拠になるのだが、それは子の方は重要視しない。

 

体感覚で「愛されている実感」などというものを届けるのは困難極まりない。

得に愛されていないと言い張る者に取っては、愛されている事実などは見つけたくないからだ。

もし、仮に愛されているとしたら、これまでの反抗してきた心そのものが悪辣に転落してしまうため、自身の正義が反転して、悪の権化となるのは許せないもの。だから、心を改めるなんて馬鹿な真似はしないのが普通である。

 

そう、一般的普通の人々や常識人は、自分の価値感は改めない。

でなければ、批判するなどという心は生み出せない。

普通の人々は、常識を装って、自分は正しい、相手は間違いってしないと気が済まないのだ。

仮に親しい友人が、間違ったことをしているなら、助けに向かわなければ、自分が友人を見捨てたことになるから、友人の気持ちなどお構いなしに、救いにかからなければならない。正義の味方は、友人を決して見捨てたりはしないものだ。例え友人が何も困って無くても、正義振る自分の認識が脅かされているなら、友人を困らせてでも、自分の認識の正しさを立証しないと気が済まないのである。

全く余計なお世話であるのだが、正義の味方であるその人は、友人の価値感などはお構いなしである。友人の周りにいる友人は、正義の味方である価値感にはそぐわないため、周りの友人をコケ落としてでも、こちらに連れ戻さなければならない。

価値感の自由など、正義の味方にはないからだ。

 

いいかい?

正義の味方は、正しさが絶対的でなければならないんだよ。

つまりは、とても狭義な意味でしか正義は成立しないとしている。

ケースバイケースとか、相手にも正義の言い分があるなどあってはならないんだ。

相手は悪者でなければいけない。

 

どちらにも正義の言い分があるなどはないんだ。

必ず悪者は、友人を騙しているに決まっており、洗脳しており、操られており、苦しめられているから、自分が正義の味方になって、友人を救い出してあげなければならない使命感に燃え上がっているのである。

巻き込まれる友人からしたら、正義感ヅラするその者は迷惑千万であるのだが、いかんせん、そういう者に限って権力や見識の高さや実力や目上だったりする。そう肩書きがあるんだ。この肩書きは絶対的だ。人は肩書きで判断するものだ!! と信じて疑わない者にとっては、その肩書きを肩書きが働かない普通の人たちとの関わりで使い出す。

社長など経営者であるなら、会社関係者や、利害関係のない者との間で、社長とか経営者という肩書きを使って上からモノを言うのである。「あなた、間違っているわよ」とまことしやかに、伝えて、私の方が正しい。私に従えば、騙されないで済むよというのだ。

全く余計なお世話である。それに従ったところで、人の人生の責任など取れる筈もないにも関わらず、「言う通りにした方がいい」などと言うのだ。嘘くさいったらありゃしないのだが、聴いている側もうっかり信じてしまう気になるから要注意である。人があれこれ偉そうなことを言っても、そいつがあなたの人生の肩代わりや面倒を見る事なんてない。絶対にね。だから、他人が他人に何か言っても、聴いた振りで十分なんだ。「うんうん、そうそう」と頷いた振りを見せていれば相手はコロッと騙されてくれる。

お節介焼く人と敵対関係になる必要もないしね。
「うま」「しか」も見分けがつかない「馬鹿」「馬鹿」にしても馬鹿にされていることに気づかないほど馬鹿だから、大人しくしてくれるからいいんだよ。

肩書きにしがみついて偉そうにしている奴には、「凄いね」「素晴らしいわ」「その通りですね」と相づち打つだけでうまくかわせる。後は「おはようございます」「いつもお世話になっています」「ありがとうございます」「尊敬しています」「見習っています」「自分の至らなさをいつも気づかせてもらっています」と繰り返し並べておけばいい。コミュニケーションはそれで成立する。互いに不快にならずに済む。

 

何よりも「見せかけ」が大事なのだから、「見せかけ」を守る関わりをすればいい。

それで気持ちよくなる人がいるなら、それを与えてあげることだ。

本当の気持ちのやり取りなどしても、考えの違いは埋まらない。互いに痛い思いをするだけ意味がない。

 

不愉快さを与えてくる人がいるなら、その人の責任と人を責め裁く人でいたいか、不愉快になっている自分を改め、気に障らないように心を改め、許して受け入れ仲良く出来るように変わる人でいたいか、考えれば答えは出る。

 

 

都合のいい優しさしか受け取れない人はいる。

都合のいい優しさを与えられる人に変わって見せたらいい。

利用された振りをすればいいし、言うこと聴いている振りをしてやればいい、持ち上げ立てて、控えめに振る舞えばいい。下手下手に出て、意見も考えも述べなければいい。相手から悪の権化から身を守る方法を伝授してもらえば、どんな心で人を差別しているかが見て取れるから、そのように立ち振る舞わないことが大事だと学べる。

 

人の心は変わらない。

 

そう捉えている人には、心は変えていける、心の傷は癒える、心の空いた穴は塞ぐなんて事実は物語の中だけであって、リアルであってはならないのだ。そう、リアルに起きてはならない。

寂しさや、深い悲しみが癒えて消えてなくなるなんて事実は認めないから。

 

 

そんな恐ろしいことは起してはならない人たちがいる。

そんな人たちとの交流は避けて通れないから、自分の意見を言うことは極力控えることだ。言うなら「どこかテレビで見た」とか「そういえば新聞で読んだ」とか自分以外の意見にすり替えて使えばいい。自分の意見でモノを言う人を極力非難し攻撃する輩がいるからだ。身を守る術は、自分で身につけなければならない。厄介な人だが、社会生活を送るにはそういう者と関わる必要がある。

 

多面的に物事を捉えていくなら、価値感を変えない人もいるってことを受け入れて振る舞わないと、痛い目を見るのは自分だってなる。

 

「あなたとだけは関わりたくない」

 

って、心の内だけで言っても構わないんだよ。

そして、他人との関わりである心の型を創り上げないと、決まり切ったパターンを用意して、計算高く生きていけない。無骨さとか不器用さを売りにしている場合じゃない。他人とはきれい事で関わらないとね。みんな「きれい」が好きなんだから、建前で整えてあげないと。

それを知った風な口を聴くなど、身内や味方の風を吹かせると嫌われる。

それでも型がきれいであれば、人は関わり続けてくれるからな。

 

相手にとって、自分が利用価値の高い質を保っていればいいって話しだ。

ん? ガッカリするかい?

質が低くても受け入れられたい?

それは怠惰でいたいってことかい?

やる気ゼロで、雇われたいとでも?

醜悪なまま、愛して欲しいと?

ドジで間抜けで僻(ひがみ)み根性丸出しで、不満を顔に出し、何がなくても愛される価値だけはあると豪語して、自己変容もせずに他人の愛を貪り尽くしたい欲望の塊(かたまり)でも必要とされるとでも?

 

ある訳なかろう。

 

何夢見ている。

 

だから、そういう心を隠して社会性だけは身につけるってもんだろう?

 

けどな、こういう闇(病み)の心を許して受け入れる存在が世の中には「いない」ことを前提としている世界に、「それでも愛していくよ」なんて愛の塊みたいな存在がいることは困るんだよ。

 

絶対愛されないから、一人で頑張って来た。

 

って世界に、絶対何がなんでも愛していくよって言われてご覧。一人で頑張って来たことが無意味扱いされるぐらいに全否定される感覚ってのは恐怖以外なにものでもないよ。

 

愛がないから頑張ってこられた人に、「愛はある」だろう。
なんて言ったら死んでしまうわ。

 

だから、こういうことは秘密にしておかないといけないんだよ。

そっとしておいてやらんとな。

 

どこか、遠くの心でうっすら愛を望んではいるものの、その望みの心に触れるには、膨大な闇の心を認めていく道があるが、それをやる度胸がある奴はおらんだろう。いてもいいがな。

 

まずは自分が嫌われ者であることを認めていく勇気とか必要だ。
認められたら、改善するものだから、改善しようとしていない「私は嫌われ者ですがなにか?」なんて奴は、自分の心がわかっちゃいない馬鹿者だよ。「嫌われている」現実に対して「嫌われ者です」「嫌われ者です」の表現のニュアンスの違いを見出せる人なら、馬鹿じゃないがな。
愛のある「嫌われ者です」発言と、愛のない「嫌われ者です」発言は、明らかに違いがあるが、文字だけ見たら一緒だ。こんなに感覚が違うにも関わらず、同じ意味として捉えるしか脳がないなら、やっぱり「馬鹿」というしかなかろう? それが事実だから仕方あるまい。

 

後は、自分の思い込み、先入観を絶対視している輩だな。
痛々しいほど、自分の見え方の正当性を並べ立てるものだけど、それが偏った論調になっていることが当人だけわからないというのが情けないわな。客観視とか、俯瞰して見ろとか言っている当の本人が、一方的な見方でしか意見や考えを口走っていないことがある。

「黙れよ」って思っていいって事をアドバイスしておくよ。
スッとするだろ。

心の中は見えないモノだから、不愉快な論調を並べ立てる相手にまともに取り合う必要はない。逝っちゃっている人に正論は通用しないからな。何言っても少なくとも目の前に貼り付けにされている「あなた」からは、何も届かない現実しかないことだけは教えておく。聴けよ。
あなたの前に立ちはだかる壁は、越えるのではなく、ないものとして扱うが正しいってことだ。

「黙れ」って思えたらなら、そいつの言うことは一切合切耳に入れる必要はない。

可哀想だから論破してやるな。しょぼくれて、再起不能な姿を見ても面倒だろう? 責任取れないだろう? だから、きれい事で片付けておけ。当たり障りなくな。

自分がもし、正義感ヅラして、友人や知人が道を踏み外して墜ちて行くように見えるなら、そいつの人生丸ごと背負ってやるくらいの覚悟があるのか自問しておけ。生涯に渡って相手が全く働かずとも、怠惰を貪っても面倒見てあげたいくらい愛しているなら、好きなことを言葉にして伝えたらいい。

そんな覚悟も正義感もない輩が、自分は真面目だとか、常識人だと言わぬ方が華だよ。

みっともない。

 

知性の欠片くらい見せてくれよ。

 

うっとうしい。

 

何も知らん奴が、知っている奴を罵倒するのが現実ってもんだよ。

って本気で言うからな。

親の愛があるのを、親は愛してくれなかったと本気で言うからなって意味合いだぜ?

それをって言う比喩表現にしているだけだよ。

それだけ、自分の感性というものは狂うって話しだ。

自分の感性に従って、真っ当に世界が見えると思うなら、相当病んでいる心だってこと。

重病人だ。精神障害も甚だしいってものだよ。

 

あんたが今生きているっていう事実が、誰かしら愛してくれてきた結果の集大成だってことぐらいわかる知性ぐらい持ち合わせてもらいたいものだ。親が愛していないなら、当に死んでいる。生きているなら、愛があるに決まっているだろう? って論調だが、まぁ、馬鹿には通用しない理屈だから、わかる奴だけわかってくれればいい。わかるように説明する気はない。馬鹿をどうやって矯正できると思う? 動物の「うま」と「しか」の区別も出来ない輩をどう解説して、紐解いて、道を示して見せたところで、どっちが「うま」なのか「しか」なのか覚えない輩のことを「馬鹿」と言うんだぜ? 無理だろう? だから、解説などはしない。
自覚して、「自分は馬鹿じゃない」って賢くなってくれたら助かるがな。周りのみんなが救われるわ。

 

「私は馬鹿にされて、目が覚めた」

 

って言えるぐらい、賢さを身につける切っ掛けになればいいがな。

「馬鹿」には出来ない芸当だが。一度は馬鹿にされて目が覚めないことには、改めていけないというオチもある。

難儀だな。

 

 

 

好き勝手に言わせてもらったが、別に読者のことを書いている訳じゃない。
かつてのオレ自身を振り返って笑って見せただけのことだ。

誰が人の事など書くか?

これは全部自分の体験だよ。

だからオレ自身、馬鹿にしてくれる愛ある人がいてくれたお陰で、ちったぁ賢くなれたってもんだって話しだ。

笑う人がいるから、目が覚める。

それを蔑(さげす)みと見るか、愛と見るかは自分次第だよ。

感覚なんて当てにならんぜ。

 

見たいように見て行け。

騙す奴がいると思いたいなら、そうした世界が見えてくる。

 

オレは世界を変えていく。そう見たいから見えてくる。

 

オレの世界は、笑いと歌と踊りに満ちているぜ。

 

 

 

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