それもまた夢だと笑えばいい その9

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わたしは洗い物を済ますと、隣の部屋からくぐもった声が聞こえてくるではないか。

何事か?

幽霊?

うめき声?

何?

なんかいるの?

向こうの部屋では、心を開くことが出来ない大の大人が今し方、ハニーレモンを飲んで休んだところ。

眠りに落ちるにはいささか早すぎるのでは?

ならば、何かに憑かれた?

もしかして、ここいるの?

恐る恐る扉を開ける。

何かが飛び出してくるのか不安でしょうがないが(嘘)、わたしは意を決して中に入った。

薄暗い部屋では、布団にしがみつくように寝ている男がいた。

端正な顔つきで、いかにも賢そうな顔をしている人だ。

その顔が引きつっているのがわかる。

悪霊でも?

何かに体が乗っ取られて、必死にそれに抵抗しているかのようにも見えた。

う゛う゛っ

声の出所はどうやら彼で、別の何かがこの部屋に潜んでいる訳ではないらしい。

念のため当たりを見回した。

小綺麗さを装う、今し方慌てふためいて片付けた形跡の残る彼の寝室は、前に来たときとは違う顔を見せていた。計画性に溢れる彼の性格からすると、お粗末と言いようがない雑なものであった。そこかしこに、乱れが感じられる。

本が逆さまに入っている。

余程何かに追われているらしい。

 

 

視線を彼に戻すと、何かに抗うように首を動かして逃げようとしているように見える。

演技かもしれない。

彼もわたしを笑わす芸でも身につけて、一連のネタを仕込んでわたしを呼び出したのかもしれないと、少し考えるがさすがにそれは飛躍しすぎかと、考えを捨てた。

彼とは半年前に、別れたことになっている。

それが突然呼び出されたのだ。

不可解とも、可愛らしいとも思える彼らしい情報のみの最低限の通知である。

メールというより通知が適切だ。

わたしの愛に屈服したことが文末に綴られている。

「言う通りにする」

墜ちた。

わたしはささやかながら勝利宣言を果たした。

心の中でガッツポーズを「よしっ」と告げて。

必要なものを取り揃えてここに乗り込んで来た。

終電間近であったが、電車には乗り込めた。

駅からはタクシーの列を見て、歩くことにした。すぐそこだ。

陽気気分8割と、彼の心境の変化2割で心躍らせてわたしはここへ来た。

どうやら相当体調が思わしくないようだが、その部分への気遣いは皆無に等しいものであることをここに綴っておく。メモメモ。

働きすぎ、無理しすぎ、嘘の尽きすぎ、無視のしすぎといったところだろう。

体が正直になったということだ。

二度しか訪れさせてもらえなかったこの部屋にやっと戻って来られた。

ふふふ。

不敵な笑いが込み上げるのを必死に抑えて、玄関の扉を開けて入る。

彼らしい香りと、ここにまとわりつく何かががわたしを襲う。

う゛っ。

 

換気しよ。

彼は部屋で寝ていた。

キッチン前にある窓と、寝室の窓を開けて風通しを良くする。

持って来たレモンの皮を摺り下ろして芳香剤の代わりに使う。

彼の部屋に重点的に散布する。

気分的には、除染作業員の服に身を固めて、汚染され切ったこのねぐらを祓い浄めていく感じだ。散布完了。

柑橘系の香りで満たされ、やっと息が出来るようになり、窓を閉める。

 

「悪い」

とだけ、彼の声を確認するが、あの弱みを見せることのないこの男が、この姿をわたしに見せてくるだけでも褒めて抱きしめてやりたいものだが、その衝動を軽く抑えながら、何しろ振りやがったからな……、殴り飛ばす選択肢もあるなと思い返して、それを選別にもう少し時間を取っておこうと、後の楽しみにして、笑って「気にしないで」と返した。

 

何か二三話しをするが、わたしがそれを遮る。

聴いてもまとまりがない。

自分でも自分の状態をうまく説明できないのがわかっただけで十分だ。

検討していた通りといったところ。

ビタミン剤を合わせて飲ませ、休ませる。

 

わたしが向こうの部屋に行っている間に寝息が聞こえ始めてホッとした。

 

 

キッチンの片付けを済まし、着替える。

タクシーで帰るつもりはない。こんな面白い、いや違う、美味しいネタを見逃すわけにはいかない。この弱みを彼の生涯、一生の不覚として記憶されることであろう案件になることは間違いない。彼の症状は気になるが本人次第だ。何が溜まりに溜まっているのか知らないが、自分を無視しすぎだ。

さて、どう過ごすか?

と、思案している最中にあのうめき声がした。

 

 

話しを元に返して、彼は逃れるように何度も首を振る。

まさに映画のワンシーンを彷彿とさせる悪夢にうなされている感じだ。

見事な苦悶の表情だ。

わたしは彼の表情に見とれてしまっていた。

息を荒げる。

それが落ち着くと、表情も和らぐ。

しばらくすると、またくぐもった声が漏れてくる。

歯を食いしばる。

息が止った。

10秒、20秒、30秒……36秒で息を吸い出す。

額に汗の球がいくつも浮かび上がってくる。

それが何度も繰り返される。

楽しくて仕方がない。

一つひとつの仕草、表情の変化に、いつも平然と何事もないようにする鉄仮面がここにはない。

わたしもなぜにこれほど彼に興味を持つのか不思議でならないが、気持ちがそうなるのだから仕方がない。素直に従っているだけだ。彼にとっては疫病神に見えているらしいが、今度は女神に見えることだろう。

 

動かなくなる。

金縛りだなと、見るのははじめてだが眠りの浅いときと、体の疲れが極まっている時に起きるものだと把握している。それを傍目にみる日があるとは。目の前の彼の疲弊していく姿を見ながら、なんと豊かな一日の締めくくりなのかと感動が湧き上がる。

う゛ぅぅぅぅぅぅぅ。

何かに強く抗っている感じがして、彼は目を覚ました。

 

わたしは現実に引き戻された。

言葉が見つからない。

浮かんだことは「怖かったんだね」と、彼の心中のままを呟いてみた。

 

 

 

 

 

人の心は不思議なものです。

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