あんたみたいな人がいるから

すっごく悲しくなることがある。

非に心と書いて「悲」という字は、「あるわけない扱い」というニュアンスが含まれている訳です。心を寄せる親や師に「そんなはずないだろ?」って言われてみたら? 悲しくなりますよね?

そんな悲しくなることについて、発達障害の続きを少し話してみる。

人は、訳もわからないモノに、名前をつけることで「安心」という嘘をつくようになるって知っている?

よく使われる名前としたら1位「障害」、2位「ストレス」、3位「病」、ってところかな。

〜障害なの〜ってすると、周りが安心する。

もちろん、当事者も安心することもある。
病名を与えられると、とりあえず落ち着くことってあるからね。
認知されるってもの。承認欲求が満たされる人は、それでいささか改善するし、対策とか処置する方法論とかも見えてくる。

だから、この名前ってのはとっても大事になる。

障害なんだ、ストレス過剰なんだ、病なんだって言ってあげるなり、言われてしまうと、それ以上追求したり、改善を強制的にこれまで通り取り組んでもダメですよ〜って距離が取れるのね。だから、双方に取って安心な訳ですよ。

大事大事〜。

 

こういう名前を与えることで、症状を整理して、区別するようになっていくのね。

カテゴライズしていくって横文字書くと言っている自分でもわからんようになるけど、分類していくってことね。昔っから、この横文字が苦手でね。ストレスも認識しづらいの。何を言っているか分からなすぎて困るわけ。どういう定義か? って、病理学習ってストレスの医学的定義を身につけたものの、それですら左脳的に偏った解釈でしかないように感じて、釈然としないわたしがいる。

こんなさ、いくら定義を見せても、その定義が網羅している解釈出なければ、言葉と放っている意味合いに幅あり過ぎるものを多用されるとそれこそ「普通」となんら変わらない言葉として扱われてしまうってのね。

 

そんな分類に区分していくとさ、枠に入らない子もいる訳よ。

でもさ、この世界って、新たに区分を与えるよりも、これまでの区分の中に押し込めるってことばっかする傾向が高いのね。これって人の価値感もそう。

「それってこういうことじゃない?」

って言われて、「違う」と真っ向から否定出来る人って一体どれだけいるのやら?

「否定から入らない」

なんて教えがあると尚のこと。

自分の持っている価値感を提示するのはいい。

それを否定されることを受け入れておく事はとっても大事な事だけど、自分の症状が何かがわからずに、人に理解されていない段階の人に取ったら「それってこういうことじゃない?」なんて憶測で適当に言われた言葉を鵜呑みに肯定するってことがあるんだよね。

 

例えが的外れって奴。

 

酷くない?

 

ろくな知識も見識も持たない人が、憶測でものを言う。

ううん、いいの。

みんなそういうことばっかしているし、それを鵜呑みにしてしまう子の方が問題があるからね。

価値観の相違とか、「こういう性格や特徴を持つ子たち」って、該当したことにして枠にはめてそれ以上の価値感を探さなくなる病気だってある。

ね?

「人の話を聞かない病」

って病名をつけたら、「ああ、コイツ、病気だから仕方ないよ。何言っても無駄だよ」って広まったらどうだろうね? 怖いよね。自分の考えを持っていて、知識として正しくても、動けないし、従えないし、わかろうとしていてもわからないし、周りに迷惑にならぬように努めているのに「病気だから」って言われたら、悲しくならない?

じゃ、治してよ?

って思わない?

こっちは治りたい気で満々でもさ、言われた通りにやろうとしててもさ、そうできないから困っているのね。うまく説明出来ないし、あの人とこの人と言う事違うし、それすら言い出せないし、覚えていないけど、体は知っているというか反応して動かなくなってしまっているからね。

 

発達障害の人って、考えて言葉に出すまで随分時間がかかることは知られているけど、本人もわからない時間のかかり方については、知られていないことだらけ。

ここで書く事も、結局はお前の独りよがりの言い分だろう? で片付けられてしまうもの。
当事者が納得して合点がいくよりも、周りが納得して合点が行くことの方が重視される傾向があるからね。

「この人私の事、わかってくれる」

と当事者が感じても、周りが「あれはダメだわ」「そうだね、一方的なものの見方している」「理解出来ないな」「あの人と関わるのはよしなさい、これはお前の為だから」と結論づけられることがあるってこと。

多数が正義の価値感は、多数派の中にいるとわかりません。
なんせ、周りの全てが自分の意見に賛同し、当事者だけが自分と周りの考えに「いやいや」している訳で、その「いやいや」することも言えればいいけど、「この子の事なら何でもわかるの」って、本人の意思とは真逆の答えに至る事もしばしばあったりする。

わかってくれる人のことを口にすると、わかっていない自分たちが全否定されるような気持ちになる。発達障害を持つ人も、一番の味方を否定したい訳じゃないから、結局自分の気持ちをわかってくれる人と関わっていけなかったりする。

結局、何も言い出せずに変わらない現実を繰り返して行く事となる。

わかる人とは関われず、わからない人と関わり続けて行くしかない。

悲しいよね。

穏やかに関われる人とか、素直に「良い子じゃない」って、障害として問題になっている側面などどうとも捉えることなく、そのままのその子のしたいことを邪魔せず、どのような目で見られていても、それに流される事なくそのままを見ることとかは、わからない人には、わからないでいる。

 

私は、発達障害と診断される人に何かしら解決出来る糸口があると見ておらず、その人との関係する方々全ての人の中に解決の糸口があると見ている人でね。「当事者の問題」なんていう意見と真っ向から対立するようなことを考えている人なの。

だからといって、当事者が、周りのせいにしていいって言っている訳ではないのよ。

「そんな風に思っていない」
「そんな風に言わないで」
「幼稚に扱われたい訳じゃない」
「嫌な事言わないで」

などと、思うことがあるなら、これも人を責めている心だとか、傷つけている心だと解釈出来る力を養っていく道があることは教えておくよ。

 

悲しいのは、そう思っていないのに、そのように受け取られてしまうこと。

学校行って、学ぶ気があるのに、よそ見ばかりして、授業に集中出来ないのは、授業がくだらないとは解釈されないのね。多数が前を向いていれば、このやり方で問題ないって扱われるの。発達障害とか学習障害の子は、私が当事者だとして言葉を最大に悪く表現して見せるなら「何言っているか、さっぱりわからん。それ日本語?」ってくらいに、不快さを最大級にしてよそ見ばかりするね。授業中に絵とか描いて、妄想世界にトリップするとかね。

精一杯、こちらにわかるように説明してくれるし、教えようとしてくれているのはいいよ。疑わないし、真剣に取り組んでくれているとも思うけど、ゴメン。さっぱりわからんのよ。この、全く入ってこない。受け取れない。という素直な気持ちをそのまま見せても、先生や周りの人は、皆目この心の状態を「障害」として認識するのが精一杯の譲歩で、それ以上解明することが出来ないでいるのよ。

なんせ、関わる自分たちに問題(障害)が発生しているとは認知出来やしないからね。

みんなさ、これまで通用していることが、ここから通用しない現実ってものは認識できないの。それを障害とか、病だとして扱う事で、関わる側を正当化して、関わっている相手の問題として解決策を探そうとしているのよ。自分で相手の裾を踏んづけて「さぁ、歩きなさい」と背中を押して支えようとしているって姿なんよね。押される側は、「踏んでる、踏んでる!」って言えたらいいけど、踏まれていることさえ認知出来ないからたまんないの。

 

だから、色調を穏やかにするとか、情報量をぐっと少なくする工夫をすると効果が見られるわけだけど、まさか関わる周りの人そのものに問題が隠れているとは思わない訳よ。まぁ、こんなこと書いて、この書き方でどれだけの人がわかるのか? ってものもあるけどね。

それこそ、「さっぱりわからん」と感じている人だっていると思う。健常者と診断される人(www)だって、わからんことだらけだってこと。うちの講座に来てくれる受講生の方々は、健常者と診断されるだろうと思うけど(診断したか確認していないから知らないよ)、突然耳が聞こえなくなったり、一文が読めなくなったりして読解能力が突然なくなるって症状がよく見られるのね。あれも、診断したら障害扱いしてあげないと可哀想かも知れないよね。何度読んでも頭に入ってこないなんてこと、みんなあると思うのね。そういう、一時的な反応に対して、そうなるものだという明確な科学的見解があるといいのにね。んでもって、もちろん「こうしたら治る」というところまで。

 

みんな「わかった振り」が得意だし、それが対人コミュニケーションとしてとっても大事で、「振り」でなんとかなってしまうから、振りで生きられない発達障害の人からしたらもう苦しくて苦しくてかなわんのよね。嘘で生きられる人と、嘘つけない人とは、嘘つける人の方が強いのね。色々とさ。本当、色々と嘘つかれてしまうの。善い言葉の裏に秘められた本音はとてもじゃないけど、表には出せないの。でも、発達障害の人ってその裏側の気持ちの方ばかりをキャッチするのね。

わかる?

裏側の本音の部分を受け取るの。

 

 

「あなたの好きに生きて」

と言葉にしたとして、その裏側にあるのを体感覚で拾うの。

「何もしないで」

と言った思いをキャッチして、押し黙ったり、何も考えられなくなったりするのよ。

これ、発達障害を持つ人の問題じゃないのよ。

問題とするなら、その人を「愛さないで」って言うしかなくなる。でもそんなこと出来やしないから、解決するのは、見ている側の問題よってことが言いたいのね。

 

発達障害の人を前に、本音と建て前の使い分けが効かないとしたら?

そして、しゃべっている自分の心の本音が自身で自覚出来ないとするなら? 見ている側でさえ、自覚出来ないって話しよ。どうやって解決の糸口を探せっての?

ね?

 

この問題は、おいそれと紐解けるもんでもないの。

 

認識のズレとか、前提となるものの違いとかを定義化したところで、意味ないのね。

この症状なら、「なんたら障害ですね」。って言われて納得するのは、手に負えないと感じていた周りの方だから。「うんうん、該当する」と安堵して、今度はその定義に縛られて、その子その者を見なくなるし、そこから抜け出す方法を探さなくなる。

 

これって、「ゴールそのものを見ていないとそうならない」と同じ理屈ね。

「幸せです」と宣言するのと、「幸せになりたい」では意味がまるで違うことと同じってこと。

「ここにいます」と宣言するのと、「発達障害です」と宣言してしまっては、問題を解決することは出来ないの。元々、何もおかしくないのに、おかしいと認識してしまったら、それに執着して変えられなくジレンマに陥っていることに気づけないって理屈ね。

まー、よく考えてみて。

 

わかるから。

 

こういうのも、本当に文脈とか空白を読み取る力の問題になるんだけど、前提知識がどれだけあるかに寄るんだよ。だから、色んな事話した後で、この話をすると届く人が増えるってのはある。そこまで詳しく書いていないだけね。

 

カテゴライズするよな分類して、あたかも「思いやっています」というしたり顔で、優しそうな言葉を繰り返し投げかけてくれる人もさ、現実の事実よりも、裏に秘められたその人の自分への責め苦が原因だなんて思いもしない訳よ。現実化していない部分を引き出されて、発達障害の人を通して問題を顕在化させられているなんてさ。誰が信じる? どう立証する? 証明できないことばかりよ?

 

常人では理解出来ない事を、変人が理解して解明したとして、常識人が変人の言う事を信じるとでも? 無理でしょ? ってなもの。

それほど見解の相違というのは、埋めがたいものなの。

 

私もどこまで紐解けるのかわかったものじゃないけど、助けて欲しいって来る人には、極力解明する道筋を照らしたいとは思うよ。

 

そんな思いで、ちょっと書いてみました。

 

「泣いてていいよ」

って言えないような人がいるから、みんな泣けなくなるんだよ。

「泣かせた奴は悪い奴」

なんて変な解釈があるから、泣く事が解決への道筋が断たれるんだよ。

「泣かせないようにしよう」

という思いやりに似た虐待があるから、みんな混乱の渦に突き落とされるんだよ。

「泣きたくない」

なんて思っているから、それを真似て我慢しかできなくなる子が増え続けるんだよ。

 

真っ当な思考回路を有する健常的な生き方が出来る側が、正常な思考をしなくなるから、特殊な解釈の中でしか生きられない人を、もっと居心地悪くさせてしまうんだよ。

全部、こっちの問題よ。

私もそうした見る側に立つ者として、理解共感していく道を歩いている。

 

教えを捨てれば、こういう人と共感する力は取り戻せるよ。

発達障害と診断される人から学びなよ。

この人たちの感性は豊かだよ。

 

 

 

優しい言葉で傷つけているからさ、まずは自分を責める心を見つけて治してあげよう。

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