知るところによると

障害ネタで、困っている人に道が出来たりして思わずホッとしていたりして。

悩みの重量が少しでも軽くなるなら何よりです。

 

こちらも、色んな事がまた調べてわかるようになると、その分解釈の幅や捉える領域も変わるなどして、新たな手法も見出せて便利になっていきます。

人の心の可能性は無限大!

証拠を元にした科学は、研究結果を活用するもの。

科学者は、未研究の世界に飛び込んで、新たな法則や可能性を模索している。

心のことも、同じように模索すればいいのだけれど、事実から確認していくものでは、解決の糸口など見つかりにくかったりします。

なんせ、自分が客観的(俯瞰的)に、その事象から離れていることが出来ないからね。

 

とまぁ、書き出したらなんだか、難しい話しになっていくのでやめにしとこう。

 

何を言いたいかというと、小さな障害を持つ人は、定型の健常者から見ると「大丈夫かこの子」「この先心配だわ」「どうなっても知らんぞ」「もったいない」「なんとか言ってやってくれ」など、感じさせてしまうもので、手のかかる子、聞き分けのない子、関わりたくない子として扱われるものだったりする。

 

それが第一印象だし、認識ですから、科学的証拠に基づけば、それが記憶され、固定化される訳ですな。だから第一印象が大事だ。なんて話しがあるように、先入観でその人の価値基準が定まると、それを覆せなくなるという話しだ。

 

「関わりたくないな」と印象付いてしまうなら、それっきり、それを挽回する機会そのものを失い続けるなんてある。こうなるとその印象によって繰り返し定着されていき、「仲良くなってもいいな」と感じさせるには、その定着されてきた感覚を取り払う時間(関わりの深さ)が必要になる。

 

嫌いな子同士でグループを組まされたとき、ムスッとしていることがある。

これは、仲良くなるために、今まで不愉快な感覚を受けて蓄積してきたものを解消する為に不満を遠慮なく態度に表わすことで、いち早く仲良くなろうとしていることもある。

特に発達障害を持つ側は、こういう体感覚を通して解消することが多いため、人前で平気に不機嫌や無口になることがある。幾ら指導しても、理由を聞いても本人もわからず答えられない。聴いたことが答えられないから、また悪い印象が周囲に根付く。その印象で不愉快さが広がり、また不機嫌や無口にならなくなるエンドレスの苦しみに陥る。

カラクリを簡単に書けばこんな具合だが、見てわかるものでもない。

だから、解消するには全体性として、みんなの協力が必要となる。

この時、不満を自在に吐出せる環境を共有できるかどうかが重要な点となる。

 

誰が誰にてではなく、不満や愚痴をこぼしても、許し合うという環境を作り出せるなら、その場は大きな変革へと繋がる。

もちろん、褒め言葉で、褒めちぎるだけ褒めまくるということを全体でやることもいい。

ただし、不満や愚痴という一見ネガティブとも思える言葉の数々を、自由に言わせて(みんなの前で言わせる勇気と許し)みることで、それが「ただの言葉」でしかないことに気づかせるワークにもなる。

確かに、自分の内にある不満や愚痴を外に吐き出させて、みんなが「ええよええよ、オレもそう」「うん、私もそう思うことがある」と賛同され、許され、認め合い、それで嫌いになることがない事実を共有することが出来れば、体感覚として大きな変化が得られる筈である。

 

言葉の暴力なんて、言葉によって人は簡単に傷つく。

 

なんてのを覆す発想である。

言葉で人は傷つかない。

なんて、簡単なことではないけれど、お笑いでは許され、友達間では許されない言葉の違いを明確に教えられないなら、お笑いと同じ扱いにして、傷つかないように変えてしまう方がマシである(当人に向けて言われていないから? でも当人に言われても傷つかない人はいる。その違いを調べてみることだ)。

 

単純に、「傷つけられた、恨み続ける」と。

「全部恨み辛み吐き出して、許してしまいました」と。

比べさせて、傷ついた後の対処療法を身につけさせたらええだけのこと。

 

証拠に基づいて生きるのが常ですから、こういう許しの場ですら、「あんなこと思っていたんだ」と根に持つ奴もいるかも知れない。それはそれで許すこと。許せないなら、許さなくていいとその姿も許していくしかない。

 

人の価値感は違うもの。

一緒にいれば、仲悪くなるもの。

それでも仲良くする模索をしているなら、許していけるものでもある。

 

 

心はいい加減なもので、不快な反応がなくなれば、気にならなくなる。

昨日大げんかして、もう口聴かない! と断言していても、次の瞬間仲直り出来ているような子たちがいたりもする。言った言葉に縛られないっていうのはとても素敵なことでもある。

言った言葉に責任持て! と悪い言葉を使って、それに縛られて許しない人になってもつまらんこと。どんな言葉には責任を持って、どんな言葉には責任は持たなくていいと学べるかでもある。

 

大の大人でも、自分のどんな言葉に縛られて、自由な発想や解釈を持てぬ者もいる。

証拠があるから安定する。

証拠があるが故に、何も出来なくなる。

この世は簡単にはならぬものである。

 

 

定型の人が、障害や軽度の普通の人にしか見えないちょっとだけ変わり者に対して、よく思われてしまうのが「笑うな」だということ。

つまり、敵意のない姿を見せる「笑っている」ことを、「笑うな」と軽蔑の眼差しで認識され、固定的価値感として定着されてしまうわけだね。すると、アスペルガーの子などは、他人の眼差しで性格形成されるので、段々笑えなくなっていくの。アスペルガーから笑い取ったら、役に立たない子ですよ(言い過ぎね)。面白さと楽しさが友達みたいなものですからね。ひょうきんさを失ったら大変だわ。でも、みんなその笑いを馬鹿にされているとか、侮辱されていると感じてしまう訳なんだよ。可哀想にさ。

そして居場所を失って、引きこもっていくこととなる。

 

 

「笑われたくない」って感じている人は、笑われることを「敵意がない印」というより「侮辱されている」と認識するからね。あなたの解釈はどっち?

 

いつも通り、笑ってね。

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