彼氏彼女の事情 その19

7.「壊してしまいたい」
強烈な衝動に襲われると、これまで築き挙げてきた関係性や繋がりなどは何の価値もなくなり、ゼロにしてしまいたくなることがある訳で、それが家族であれ、最愛の人であれ、お構いなしに起きる。

本当にどうでもよくなる。

仕事においても、自分の好きなことであっても、他人さえもね。

こうした感覚は、理性が破壊する方向へ協力する為、少々頭が回る人でも「今ある状況はうまく行かなかったから、やり直せば良い」という解釈に手伝ったり、まさしく思考停止のようになり、他者の説得を一切排除するようなことになる。

衝動性障害ではなく、アスペルガー症候群の症状でもこういうのはある。理性が働く人などは、この壊してしまいたい衝動が出て来ると、一人こもり、自分のおかしくなっている価値感をやり過ごすくらいしか手立てがない。

猛烈に喧嘩や、器物破損的なものをしでかしたりして、周りの介入がないと落ち着けない人もいるが、原因はとても些細なこととか、振り返ると何が切っ掛けだったかさえわからなくなることがある。

何故こうしたことが襲って、手がつけられなくなるのか?

最愛の人や家族は何を抱えているのか?

人は誰でも人に言えないことが一つや二つはあるものって話しは聞くよね? 「誰にも言いたくないことってあるさ」って思いやりを向けてくれるとホッとするし、そんな思いがある人は根掘り葉掘り聞き出そうとか、知ろうとして自滅していく人とか見ると「なんでそんなに裏の裏まで覗き見ようとして、清廉潔白さを相手に求めるのかね? そんなことするような性格だから、結果捨てられるんだよ」とかね。思う訳です。それでも聞きたい方は聞きたくなるから聴いてしまうし、知ってしまったらそれはそれで対応出来ない重大な問題だったりする。覗いて手の平を返すくらいなら、覗く前に手を切れば済むのにね。えん罪でも誤解でも勘違いでもいいからさ。

そういう事実無根なことはしたくない?

なにが事実なんでしょうね?

過去世のことは許せて、昨日のことは許せない?

そんな時間的尺度の問題を同一視出来ないから、いつまでもそんなんなんだよ。

もっと分かりやすく言うなら、20年前のことは許せて、昨日のことは許せない? 時間が解決する? ホントに?

あいつのやることは許せないのに、この人のやることは許せるんだ。ってこともあるよね。同じ事象でも、許せる奴と許せない奴と差が出て来る。好きな人なら許せて、嫌いな人なら許せない。当然よね? 

じゃ、その嫌いな人が我が子や最愛の人だとしたら?

え、意味分からん? って?

我が子や最愛の人は好きだよ。もちろん、それは頭の中ではそうだ。それを否定はしないよ。

でも、腹の底、深層心理の奥深いところで、かつて、生まれる前の話の中で「絶対許せない」とか「許せぬ余り殺してしまった」とかしていたら? って可能性の話しだよ。

前世とか、過去世とか、そんな証明出来ない話しを持ち込まないで欲しいって思うかも知れないけど、まぁいいよ。我が子や最愛の人が「壊してしまいたい」って衝動に苦しんでいるのを、我が子や差愛の人のせいにして、「私は無責任ですから!」と高らかに宣言しておけばいいってだけだから。無責任と書いて、責任はありませんって言うのだよ。もちろん、「壊してしまいたい」って衝動や思いが湧き上がるアスペの人や、それを愛する定型の人にもこんな思いは出てくるので、発生源がどこか? なんて中々わかったもんじゃないけど、探すと見つかるからね。

もしかして?

って探すと、「あの人」とか「この人」とか思いつくの。その人という確証はなくていいから、その人たちだと思ったらいい。その人らが、自分のこと、嫌っているとか、殺した犯人とか、自分の最愛の人をその人に殺された犯人とかって思ったらいいよ。

みんなさ、過去世の罪とか時間が経てば時効になるって思っているみたいだけどそんなことないからね。サイコパスみたいな相手の苦痛などお構いなしって人も、二パターンあって、愛からやっている人と、恐れからやっている人では我が身に還ってくるかどうかが違ってくるから。

何が言いたいかってのは、アスペの「壊してしまいたい」を発している人は、「愛する人を我が手で殺している」とか「愛し合っている二人の片方を殺して、好きな一人を我がものにした」とか「二人とも殺した」とか「関係ない人を殺した」とか、まぁ勢い余って色々と暴走した経験があるってこと。もう少しわかりやすく言うなら「感情に従って、今でもそれを正当化している」ってこと。

みんなさ、「腹が立つ」のは、人のせいでしょ? 自分が原因だと知っていたら腹は立たないもの。イライラするのも、ムシャクシャするのも、実のところどこかに人のせいにしている心があるからなんだよね。

好きな人に、他に好きな人が出来たら、裏切りだし、無責任だし、あの時交わした約束はなかったことにされてしまうし、色んな意味でいっぱいイケナイ事が起きてしまうよね? そんなことあると、「悲しくなる」し「寂しくなる」よね? その感情を引き起こさせたのは、他に好きな人を作って、自分の元から去る相手が悪いってなる。ここで殺意が芽生えても、誰も文句は言えないでしょう? ってのがあなたの理論なのね。

そして今もその理論に乗っかっていられるから、平然と生きていられるのね。恥ずかしさもみっともなさも微塵に感じずにね。

好きな人に、他に好きな人が出来るってことは、端的に言えばあなたに魅力がなかったってだけ。言い方変えるなら、より優れた精神性を身につけようとしなかったと言える訳ね。みんなさ、美しいもの、綺麗なもの、素敵なもの、正しいもの、優れているものに惹かれてしまう性質が備わっているの。だから、あなたが何もせずにいるなら、相手はより良いものを見つけてしまったら、それに惹かれてしまい去って行くことになる。それを防ぐ為に「結婚」なんてメカニズムが開発されているけど、様々な価値感がある中で、「結婚とはこういうもの」って一つの定義で縛るからおかしくなるってのもある。それに「結婚した当初のままの思い」に固定化されて、一切成長をしない人と、互いに変化していくことを受け入れて行く人となら、溝は生まれるに決まっているよね。

相手は、他に好きな人が出来たってことだから、自分以上にその人のことをわかって受け入れてあげられる人が表れたとも言える。つまり、好きな人がより幸せになっていくのだから、これ以上の幸せはないとも言えるのだけど、いかんせん、自分には「悲しい」とか「寂しい」とかが湧き上がる。これを与える好きな人は悪い人に様変わりする。こうなると、「恨み」「憎しみ」なんてものがふつふつと湧き上がり、「許せない」に転じていく。

好きな人の幸せを願えないってことは、最初から「好きじゃない」ってだけ。どんなあなたでも「好き」って訳じゃないの。もちろん、どんなあなたでも「好き」としていても、相手が「好き」と言い続けてくれるかどうかは別問題ね(どんな自分も好きがないと。相手の中に「好き」を維持させられなくなるから)。

要は、相手が自分の事を「好き」と言ってくれたから「好き」だとしていられただけ。相手が「他にもっと好きな人が出来た」って言うと、支えになっていた相手の好きが崩れるから、自分の好きが突き崩されるって訳ね。「信じていた」って言うけど、自分の気持ちを信じるのではなく、相手の気持ちだけを信じていたってこと。つまり、自分の好きかどうかはどうでもいいってもの。だから、相手の心変わりに対応出来ないの。自分を変えるにも至らないの。「他に好きな人が出来た」「あなたについて行くことは出来ない」「一緒にやることは出来ない」などなど、色々な理由で「好き合っていた筈」の現実が崩れ去ることはある。

でもでも、それに執着する人がいるんだよね。

「君はそんな人じゃない」「私を見捨てるような人ではない」「あなたは騙されているの」「目を醒まさせて上げられるのは私しかいない」とかね。

ここに入ると、「恨み」とか「憎しみ」とかに転じるのよ。

さすがにこれは、明らかに自分が犯人と自覚してしまう時代になったので、「いじける」とか「ひがみ」に姿を変えて潜伏しているのね。「いじける」=「恨み」、「ひがみ」=「憎しみ」って解釈すると合致していくから、知識で覚えておくといいよ。根本の問題は一緒だから、ただその気持ちが相手に向かえば「恨み」、自分に向かえば「いじける」になるだけの違いだから。「憎しみ」は誰も責めないようにすることで生まれて、「ひがみ」は自分と相手だけが悪いとすることで生まれるものね。だから他人からしたら「何でそんなこと気にしているの?」って話しになるのよ。

そんな恨み、憎しみ、辛みってのが極まって、好きな人を殺めてしまうとか、好きな人のもっとも嫌がる事をしでかしてしまうの。まぁ、今の時代に「殺してやりたいくらい憎くなった」なんて愛をお見かけすることは少ないけどね。だから、そんなこと大々的にできない時代だから、みっともない真似出来ないので「いじける」とか「ひがむ」で隠れるのよ。

アスペルの「壊してしまいたい」という思いを拾い出してくる大元に「好きな人が好きじゃなかった」思いがあるし、殺めた相手が近くに居てごらん。口封じも出来ていた相手が隣でのうのうと生きているんだよ。どんな気分だと思う? 「何で死んでないの?」と心のどっかで思っていたりするものなんだよ。好きな人に振られ、勢い余って殺害したりして、我に返ってそれを隠蔽出来たとするよね。昔の話しだし。見つかって処罰受けたとしても、死んでないなら気は晴れないんですよ。気が晴れていないから、殺した相手が生きていたらたまらんわけ。「あんたが殺したの知っているのよ」って転生して突きつけられているようなもの。だから、かつて好きだった相手をもう一度殺してしまいたいような思いが「壊してしまいたい」ってものなの。その思いだけをアスペルの人が拾い出しているとしたら? ってことね。

ふー、長い。

もう、頭こんがらがっているんじゃないかな?

該当者じゃなければ、整理できんと思うよ。
該当者なら、事実を突きつけられて「ひぃぃ」って気分かも知れないし、「バレたかぁ~」って笑い出しているかもね。

まぁ、惚れた腫れたのことだけど、自分の中から湧き上がる「好き」を維持するためには、相手の好きが欠かせないってことだからさ。両思いに一度でもなると、この変化に片方がついて行くことが出来なくなるのね。自分の好きが相手の好きに乗っかっているなら、そのまま消滅していいものなのに、なんで恨みや憎しみに転じてしまうのかね? ってとこ。

それはね、「みんなが、一度誓った愛は永遠に愛し合うもの」と決めているからなんだよ。だから、この愛が途中で途絶えるなんて自分はよくても、みんなが許す訳がないって、みんなの代わりに怒るんだよ。わかる? この愛は永遠だってしておかないと、示しがつかないって理由なの。怒りのエネルギーの源は、「愛は永遠としておかないと」って理由なの。自分が好きとか、相手が好きとかでなく、一度好き合ったら最後!! その人以外愛してはならないって誓約ね。そして転生しても、その人しか愛してはいけないってものだったりするから、その人以外と恋愛しようものなら、違和感出まくりで別れたくなる衝動も生まれるし、別れたら別れたで恨まれるし、憎まれるしね。自分が他に好きな人が出来るってことも、もしかしたら嘘の場合もあるのね。本当は本当に好きな人と結ばれているのに、「他に好きな人が出来た」って嘘をつくことだってあるんだよ。

あれれ?

さっきは、「好きな人に、他に好きな人が出来た」でブチ切れた話ししてたけど、今度、「自分の方がもう一人好きな人が出来ちゃった」パターンも、もしかしたら好きでない人を好きになったかも知れないってこと。どうする? 今の彼(彼女)より、凄くいい彼(彼女)が表れたら、そりゃ好きになっちゃうよね。でも、その「好き」の方が偽物って場合があるってことよ。理由は上に書いた通り、いつかの過去世で愛を誓い合った相手とかね。もう目移りが激しくて大変よ。

アスペルの「壊してしまいたい」感覚は、そんな滅茶苦茶な思いが届いているの。顕在意識として、誰を本当に好きなのかわかんなくなるし、永遠の愛を向けられると「やめて」って気持ちにもなったりして「壊してしまいたい」なんて湧き上がったりもするのよ。もう人の感覚が整理できんし、制御もままならんくなるんだよ。

訳わからんくなったね。

うん、書いている私も似たようなもの(つまりこんがらがっている)。

物事の真因、本質は「永遠に愛を誓い合った」ことね。

これが一番の要因なの。それを忠実に転生した今世(今の人生)も同じように愛そうとするの。出会えていない人は、婚活しようがなにしようが、ピンと来る人とか見つからないのは、その為の場合があったりするんだからね。マジで。「永遠の愛の誓い」を舐めてはいけないよ。そりゃ、来世も一緒に過ごしたいと思うのはいいが、その誓いは、死ぬ直前にしとけ。結婚する時とか、出会ったときの熱々の時にするものではない。老いて、酸いも甘いも全部知った後で、「こいつとなら、来世もまた人生を共にしたい」と思えたときだけ、「永遠ではなく、来世も一緒に居る」としとけよ。一度誓うと、早々外れないからな。同じ人に対して、同じテンションになって、契約解除でもしないと外れないから。そんなの出会えてないのにどうしろと? ってあるでしょ? しかも出会っていても、熱冷めている相手じゃない? どうやって、誓いを取り下げるの? ってことよ。「辞めます」で辞められたら誓いじゃないのね。これが本当にヤバイの。それこそ、まさみちのブロック外しが必要なのね。このクラスの誓いは乾栗陀耶識(けんりつだやしき=とんでもなく高い意識ってこと)レベルだったりするからね。まぁ、自力で外した体験がある人なら、シータヒーリングとか、単なるヒーリングとかでも外せたりもするけどさ。出来る人にやってもらってみ。永遠の愛を誓い合う相手でも、他の人好きになるし、相手の本性を知っているなら、誓わなかったというのがオチだったりするのね。転生して、相手の立場に立つとか、お馴染みの学びとか、修行とかって言われちゃうようなことが起きるの。でも、本当に言わなければならないのは「永遠の愛を誓った」ことに対して「これは遊びだったの」って正直に認めることね。続け続けられない愛は、みんな遊びなの。そうしないと、「永遠の愛」との区別にならないでしょ?

 盛大に結婚式をやろうが、何しようが、終わりが来るような恋愛は全部「遊び」という言葉で括って上げる残酷さを持たないと「恨み」「憎しみ」もしくは「いじける」「ひがむ」ところから、抜け出せなくなるからね。さらには異性に対する「虚しさ」「拒絶感」から抜け出せないからね。

「好き合った」間柄を「遊び」として改め治して過去の壊れた恋愛を整理するってのは辛いけど、「永遠の愛」に翻弄され続けたくないなら、やっておくのも手だよ。それは「許し」だから。「遊んでしまった」「遊ばれてしまった」という自由な発想を許しておくことで、元に戻るから。最初から「遊ばれた」っ嘆いている人は、「永遠の愛」が根底に流れているのを認めないのね。だから、「遊ばれた」って嘆いている人は、「私はあなたと、永遠の愛の中にいるから、いつかきっと帰って来る。待っているわ」なんて声出して言えたら、バカバカしくなって誓いが消えるから。「遊ばれて許せない」ってしている人も、それに執着しているんだから「相手の愛は本物で、自分の愛が偽物だった」と認めてみるのも一つの道ね。「遊ばれた」じゃなく「我がまま聞いてくれなかった」と解釈してみるのも一つの手立てだよ。自分の愛こそ本物だってしているから、道が拓けないんだよ。自分の方が偽物って言える心くらい養わないと、目が醒めないよ。

「永遠の愛」なんてものは、「我がままの全てを聴いてくれること」と同じに解釈している人がいるから、「好き」=「永遠の愛」=「我がままの全てを聴いてくれる」と解釈している人さえいるのだから、それが壊れたとき、「我がままを聴くって約束した(好きって告白してくれた(もしくはエッチさせてあげた)」のに、約束と違う(我がまま聴いてくれるのだから、好きじゃなくなることは絶対にありませんと誓ったと聴いていることになる)として憤慨する訳です。こういう理屈で、好きな人に他に好きな人が出来ると半端なくブチ切れる人とか、半端なく落ち込む人がいる訳ですね。厄介ですよ。

だから、自分のわがまま放題許してくれる人しか愛さなくていいんだけど、それには、我がまま方題してくる相手をそのまま愛することが出来れば、永遠の愛は容易く手に入るとも言えるんだよ。他に好きな人が出来ていようが、自分の事など見向きもされなくても、それでも言い聞かせでなく、それでも好きと言える心を養えればいいってこと。出来る? 出来もしない人が「永遠の愛」という執着と契約によって愛を縛り上げて、壊れないようにしたいの。何の約束もなく、執着もなく、それでも相手に寄り添い続ける心を養った後にしか永遠の愛だったと気づけぬものだよ。それは「寂しさがあっては誓いにはならない」と気づかないとね。寂しい時点で愛を見失っているんだから、永遠の愛なんて誓いようもない。「寂しいから人を好きになる」なんて、そんな不足感を埋め合わせるような恋愛なんてしていたら、いつまでも飢えに苦しむ餓鬼のような恋愛しか出来ないからね。たださ、「わがまま」を言いたいだけなんだよ。それを受け入れられる人がその人だと思ったんだ。それがいつしか「我が儘」にすり替わったことがわからないんだ。言う方も聴く方もね。「わがまま」と「我が儘(まま)」の違い、わかるかい? 説明してみてよ。出来もしない人が、「愛」だのなんだのって騒ぐのね。素直な心になれば、わがままを言うものなんだよ。その素直さを「我が儘」として聞かれたら、素直な心は行き場を失う。そして破局する。どっちのせいだろうね? 素直さ(わがまま)を出して嫌われる方が悪い。素直さ(わがまま)を出してくれたのに、受け入れなかった方が悪いのか? あなたはどちらの立場にいるのかな? 自分の素直な心がわがままに通じているって知っているかい? 我が儘(まま)との違いを区別出来る感覚的な違いを得るには、素直さを取り戻した後でしか出来ないよ。「永遠の愛」は「わがまま」であることなんだ。出来ない人が誓うんだよ。「わがまま」でいられたら、誓う必要性さえ湧かないからね。だから、あなたの「永遠の愛の誓い」は、「私の素直な心(わがまま)が嫌い」によって支えられているから、誓い合った相手は「素直さを見せられると、猛烈に嫌いたくなる衝動が湧く」ってカラクリに気づかないと、その浅はかな愛の誓いの落とし穴に気づくことはないよ。いい加減目を醒ましてね。「私の我が儘はわがままにしてわたしが聴く」としてあげること。そうした後、はじめて「永遠の愛なんていらない」って気づくの。何故なら、それを全部出来た後「永遠の愛の中に居た」って気づくから。ちゃんと感じるからね(知識で言い聞かせるなよ)。

これで、大体のことはわかったかな?

本気で人を好きになり、愛するようになると、相手の痛めつけられていること、苦しまされていること、恨まれていること、憎まれていること、蔑(さげす)まれていること、辱(はずかし)められていること、嫌われていること、無視されていること、愛されないことの思いに触れて、相手以上に辛い思いに打ちのめされることになるといい加減に気づいてね。

我が子でも、兄妹でも、最愛の人でも、「好きになる」なんてあるでしょ? そしたら、その人のこと知りたくなるでしょうが。どうやって知ることが出来るか? っていうと、その人が隠し持っている苦痛を我がものとして感じられたら良い訳だよ。そしてその苦痛が相手のものだと知り、同じ痛みにまみれて、自分が先にそのから抜け出す道筋を見つけてあげたら、相手は大喜びするだろう? それを与えたいんだよ。それを「愛する」なんて言葉で表現しているんだよ。わかるかい? 愛するって、「あなたの痛みは私の痛みです」って行為だからね。激痛が届くと思いなさいな。迂闊に人を好きになると、とんでもない目に遭うと思ったらいい。アスペはそれを無意識に全員に対して働きかけるようなところがあるから、何が我が身に起きているかわからなくなって、破壊衝動みたいなものにかられたりするんだよ。でも、それって人をそれだけ好きだからだろう? 「みんなこんな思いに縛られているんだ」って感じてあげたらどうだい? 説明のつかない苦しみも我が身に置き換えたら、他人ごとに出来なくなる。苦痛の中に居ると、何とかしてでも痛くないようにしたくなる。そして楽になる方法を見つけられる。我が身可愛さと良く言うが、それこそ大事にしないといけない感覚ね。逃げて済むならそれでいいが、我が身の痛みからは逃げられないからね。そうやって自分を追い詰めて、自分で気づくように仕向けているのも自分だと知れば、自分の愛の深さの片鱗に気づけるってものだよ。「本当にこの人が好きなんだ」って受け入れたら、その好きという力で、あらゆる苦しみの答えを見つけて楽にしようと思えるもの。

その好きって対象が、相手より、まず自分自身を好きってすることの方が先だったってだけな話しだ。

この「壊してしまいたい」の大元を辿っていくと「私は自分の素直さが大っ嫌いでした」って行き着くんだよ。それこそ、自分で自分の素直さを壊してしまいたいくらい、無くしてしまいたい勢いを持っているんだよ。それだけ、素直な心を見せて傷ついた体験があるんだ。愛しているから、我が儘だと勘違いしてわがまま(素直さ)を否定されたことが原因だけど、その勘違いを責められるかい? あなた、今、子供や愛する人が「あんたなんか嫌い」って言われて「我が儘」なのか「わがまま」なのか、区別できる感性を養っているかい? 「そんなこと言わないで」「聞きたくない」と答えるのか? 「もっと言ったらいいよ」「そんなあなたも大好きだから安心してね」と答えるのか? あなたは心はどこを見るのかい?

愛を見失った心で、愛を見る事なんて出来やしない。

愛を見失った心は、愛じゃないと思うものを愛と決めつけて受け入れていかないと、愛を取り戻せないだけだよ。そんなカラクリ、誰が教えても受けとれはしない。何故なら、証拠が見つけ出せないからね。愛を失った心は確証や保障だけが大事になる。証拠のない愛など要らないのだよ。だから無条件の愛ほど怖くて、憎くて、恨めしくて、虚しくて、拒絶したくなるものはないんだよ。

あなたが欲しい言葉は「わがままでいいよ」って言われたかったの。だけど、「我が儘は“わがまま”に直して言って」ねってことで、それを好きになった相手に要求するものではないってことさ。

じゃ、どうやって「我が儘」を「わがまま」に直せるかって言うと、「区別出来ない段階のまま、我が儘かわがままを書き出し続けて、それを一日後に声を出して読み上げる」ことをすればいい。読みたくないなら、それは「我が儘」だと判別出来る。「わがまま」なら、そうだよねって肯定出来る。自分で自分の言葉を否定したくなるようなら、それは違うということだ。

これはやり続けなければ身につかない。やった者にしかわからない。頭の中で整理しないこと。書き出すこと。本来なら人に見せるくらいで丁度いい。見せなくてもいいから、見せられるような形態にしておくことだ。自分専用ブログ=読者自分だけ。って奴だ。そうでもしないと、心の整理なんて出来やしない。徹底的にやれ。我が子や最愛の人が「壊してしまいたい」という思いで苦しんでいると思ってもやる気が湧かないなら、その程度の思いやりしか持ち合わせていないと、自分もまた何かに病んでいるだと気づけばいい。それ病気だから。ってね。

こうして、心の傷ってものは、人から人へと繋がり続けているものだと解釈してくれたら、この話はそれでいいってなる。それが一点に集中して受け皿になっているのがアスペのあなたかも知れないし、あの人かも知れないってだけだ。その負荷たるや、想像してみたらいい。自分が身動き取れずに苦しんでいるのが、大勢の人の苦しみが自分一人にのし掛かっているとしたら納得が行くんじゃないかな?

心が繋がり合っている、負荷が他人に移動するものという解釈など、現代科学では証明しようもないものだけど、大事なのはあなたが納得出来て、楽になるなら、その結果の方が大事だ。アスペは大勢の人が納得しなくても、自分だけが体感的に変化があるなら信じるタイプだ。定型の人は大勢の人が信じられる客観性の解説が大事であり、みんなが信じてみんなに効果があると証明されてからでないと信じないタイプだ。どちらも大事だ。

両者が協力し合えるといいよね。

だって「あなたが好きだから」で、全ての苦しみを楽に変えられる道筋が見つけられるのだからさ。それ以上の理由はいらないし、その為なら、見つけられなかった解答さえ、見つけ出してみせるって出来るんだよ。「あなたが素直になれたとき、あなたを愛する人は素直に答えるよ」それが答えだよ。

素直になれていないから、相手と衝突するし、他の人に持って行かれるような目に遭うし、あなたがより自分を深く愛するように変わっていないと、損な目ばかり遭うなんてこともある。つき続けた嘘の理性さが、素直さを覆い隠して、何が大事なのかわからなくなってしまうんだ。

みんなとは仲良く出来る。でも、あなたとだけ仲良く出来ない。

こんな苦しみ持っている人、いっぱいいるんじゃない?

あなたとだけ、仲良く出来ないってのは、自分自身が、自分と仲良く出来ていないってだけの間違いじゃないかな? 「こんな自分、壊してしまえ」ってやったことない? それ、自分、忘れてないんじゃない? まだ、壊されたままになっていない? 修復しいないの? 壊れたものは元に戻らないの? 心についた傷は、治らないってルールなの? 誰が決めたの? 誰に言われたの? 心の傷なんてつかない。ってルールでも良くない? 錯覚だった、誤解だった。はじめから愛されていた。愛されていないと勘違いしていたから、嫌われるような出来事が繰り返されたって気づかない?

なんてことね。

容易くはないさ。

でもやれば容易いんだよ。

まず、「自分の全てを好きになる」って宣言したらいい。それからだよ。

そして「あなたの全てを好きになる」って宣言したらいい。その先に「みんなの全てを好きになる」って宣言出来る「わたしが好き」って言えばいい。

素敵な自分がそこに居るだろう? それが「わたし」だよ。

本来のあなたそのものだよ。それに気づく為に、あの人が居たって思いだしたらいいんだよ。

「ああ、私は今も愛されている」って受け入れられるから。

「今も私は愛せている」って認められる自分の素晴らしさに気づけるから。側に居る、離れている、関係なく好きでいられる自分が見つかるから。

「あなたを好きと言える自分が好き」ってね。

それを認められたら、「壊してしまいたい」って思いをアスペの人に思わせることはなくなるよ。アスペの人も自分の事が嫌いって思っている心が、あなたを愛する人の気持ちって気づいたら、周りにいる人がどれだけ傷ついたまま生きているか実感するでしょう? 優しくしたくなる。それがあなたの愛だよ。

以上です。

こんがらがっていると思うけど、あっちこっち行きながら、ブロック外すキーワードを並べていったけど、個別には別途解説が必要かも知れない。聞こうとするんじゃなく、自分で見出して解説を補う作業をしてごらん。

どうしても、人って「聞かないと」って思うらしいのね。あなたが納得する答えを、あなたが作り出せばいいものを、それを人に委ねるから苦しむ人生が繰り返されるのね。自分で考えなさい。これだけの情報があれば、取り組めるものよ。

自分で調べたくなるくらい、困っているのか、調べる気もない程度しか困っていないのかで決まるよ。自分のことだもの、自分で取り組まないと、誰も救い上げてくれないからね。

こういう情報を秘密にして、セッションでしか話さないとするなら、この手の情報は50分/27,000円取るって書いておくね。

今回の一連のアスペのブロック外しは、16万2000円は一人ひとりからいただける内容をアップしている。

それに価値を見出すかどうかなんてあなたが決めればいい。

読んで泣けた体験をどう扱うかだよ。

ただ(無料)でもらって、何もしないなら、人としてクズだと思ってね。

役に立ったと感じておきながら、それを自分のものだけにしておくって浅ましい考えがこべりついている人は、そりゃ、人から愛されないわな。自分の言葉に転換して、どうにか周りに届けようと思うほど、周りを思いやっていないってなるよね。

自分を知りなさいね。

 

 

好きだから出来る、そうじゃないから出来ない。

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