彼氏彼女の事情 その21

シリーズに入ってドツボ感満載のまさみちです。

21回目かよ。

長いなぁ。

終わらんなぁ。

一つひとつの文章がまた長い。

今回も長い。

身動き取れないアスペルガー症候群の人に向けてのブロック外しだけどね。
読んでいてもピンと来ない人もいます。
該当していないとそんなものですからね。

 

9.「自分を痛めつけたい」

「人を責めるな」と言われれば、その先の展開を読み解くとして正解は「じゃあ、自分を責めたらいいね」って思う考え方について、考えたことがない人がいる。

会話のやり取りの中で、「これはしたくない」と会話の中で応えると、「私と関わりたくないのね」と解釈する人もいる。

目先のやり取りの事実関係を伝えただけなのに、そこから類推されて本人にとって都合が悪くなる方へ、物事を捉え、思い込んで行く人がいる。

アスペであれ、定型の人であれ、この「自分を痛めつける」という現象は目撃することが出来る。アスペの人であるなら、執拗に定型の人を証拠を元に、攻撃して責め続けるという姿で表れることもあるし、事実無根にも関わらず一方的に集中砲火を浴びせられ責め続けられることもある。定型の人であるなら、アスペの人の身に起きている辛い状態を我が身で受け止めて、何も出来なくなるくらい苦しい状態に陥ることがある。

「自分を痛めつける」とは、我が身で起きている症状を、口にすることがないということである。正し、相手を自分の分身と思うほど深く愛すると、現象として他人を痛めつけるということになる。

よく、親が子を殴る幼児虐待なんてことが事件として紹介されるが、自分を痛めつけていない人が出来る行為でもない。まぁ、考えればそのくらいのことは想像出来るが、振り上げた手が止められなくなるとか、執拗に責め続けるような現象が起きてしまうのは、自分を痛めつけていることが答えだとしているからである。

リストカットなどの自傷行為ではない。

自分の分身となるほど深く愛する=我が子=最愛のパートナー=母方の祖母に表れる。複数人表れることもある。

簡単に言えることは、「ルールを一度でも破って、それを責められた体験がある」という事実に基づくことである。

そんな人、全員じゃない?

そう、全員だと思う。ルールを子供の頃から大人になっても、破らない人などいない。それは自分が知っている。交通ルールにしても、速度超過していないドライバーなど居ないだろう。一時停止無視や、徒歩でのルールなら幾らでもありそうなものである。

「ルールを守りなさい」
「はい(守らない人は罰がある)」

このやり取りで、「ルールを守れなかった私が悪い」が破られたとき、自動的に無意識のうちに自責が発生する人がいる。罰則を教えられると、守れなかった場合、罰を受け続けたまま終わらない人がいる。それが蓄積されて、我慢出来なくなるとどこかに捌け口を見つけると執拗な責め苦を与える形で噴出する。

アスペは、そうした小さい自責の念を束ね集めて我が身に背負い込んでいると思ってくれたらいい。だから、小さい子を執拗に厳しく叱責する親を見て「そんなに強く言わなくてもいいのに」と思う人がいるなら、自分の中にある小さい自分を痛めつける思いが、親の心を狂わし、小さい子に当たる姿として映し出されているというなら、改めるべきは、その親か自分か?

この苦しみは「人のせい」にすることで容易く逃げられるのが特徴である。

その人のせいによってたらい回しにされる「自分を痛めつける」という思いが行き着く先は、大体は子供である。最も酷い状態に陥るのは8歳~16歳ぐらいまで、次に3~8歳、その次に16~28歳当たりの年代が分けも判らぬ苦しみを背負わされることとなる。

ピークで言うなら13歳、5歳、17歳といったところだ。

「人のせい」という得体の知れない責め苦が巡り巡って自分に集積されていることを想像してくれたらいい。「思春期だから、仕方がない」というのは、言っている本人が「人のせいにしてはならない」という人のせいにしている人を責める人のせいが残っていることを知らないから、そんな諦めの言葉が出て来る。

全く人のせいにせずに生きられる人などいない。いないが故に、責められた者の誰かが、それを負わなければならない。それが単に我が子や、最愛のパートナーや、祖母というだけである。

「逃げてはいけない」

こんな教えがあるから、アスペの人は届けられる相念に押しつぶされなければならない。身動き取れなくなるくらい苦しいことになる。家から出たくない。誰とも関わりたくない。誰もわかってくれない。自分を大事にしようと思わない。

そんな風になる。

「死んではいけない」

逃げてはいけないと同様に、「死」という誰もが訪れる自然な営みの流れを他者によって封じられることの不自然さを、道徳ある者、心優しき者、知恵のない者は容易く口にする。それがどれだけ人を追い詰めるか知らないでいる。「生きたくない」「死にたい」と口走る子がいるなら、「どれだけ苦しいか、その針で私の手を刺して見てくれないか?」という関わり方はしない。辛い苦しい思いを全て吐き出させる方向へとは誘導しない。もし、本当に吐き出させる自由を与えるなら、親や愛する者たちを罵倒し倒すということをさせなければならないし、鬼や悪魔が乗り移ったのごとく、残酷な言葉を吐き出し続ける必要があると聴いて、その罵詈雑言や、悪辣な言葉の数々をその身で受け止める勇気はあるか? と聴きたい。人が人を助けるなら、その身を相手に寄って引き裂かれるくらいの献身さが必要だということに気づかぬ者が多い。つい、道徳に走る。愛を口走る。正論で説く。そして「人として」ルールや制御しなければならない不自由を教えて、口でどれだけ汚く罵る言葉を発しようとも、誰一人、心が傷つく者がいないとは教えようとはしないのだ。

わかるか?

言葉の解釈によって人の心は傷つくのであって、解釈が正されれば心の傷は容易く癒えてしまう。それほどまでに、勘違いする心の厄介さは手に負えないものである。手に負えないことを隠すから、道徳にすがる。そしてアスペのような人を前に無力を感じなければならないのだ。そして言うのだ「時が解決してくれる」とね。そう言う前に「私には何も力になれません。あなたとって存在価値のない要らない人だと自覚できました」と言ってのければいい。相手の苦しみを取り除きたいなら、自身の価値をゼロにして見せろよ。そしたら自動的に相手が自分より価値ある存在に変えられる。誰もが価値があるなんて戯れ言を言ったところで救えない人が目の前にいる事実を見落とすなよ。バカたれ。自分の価値を無価値にしてみせれば、それ以外の者を引き上げる、押し上げる、支えることが出来るということくらい考えろよ。愚か者よ。

自分の頭で考えないから、愛する人を苦しませることになる。気づいたら、とっとと「人の言うことは聴きません」と道徳やルールに従う自分を捨てて、自分の心でしたいようにするに変えたらいい。誰それ(親や師や先人や偉人や経験)に従わずともそれは出来る。

「教えを守れ」

自分の言うことは聴かなくてもいいが、「教え」は守った方が良い。なんて考える親や師は多い。自分が口走ると、それは傲慢だとか、主観的な身勝手な解釈と思われてしまうけど、「偉人の教えなら確かだ」と言うような人がいる。有名人が名言を吐くと、それをシェアし、拡散していくこと。それを実践出来ているつもりでいるのかどうかは知らないが、「教えはこうだ」と、その見方を絶対視するところがある。また、厄介なことに「教えを守らなくてもいい。自分で決めることだ」と、教えそのものをあれこれ言わない人もいる。「うちは放任主義だから」という教えだ。結局は、その子を見ていない。ルールを見て、その範囲に入れば良いが、範囲外であるなら責めて範囲内に追いやれば良いと考えるのだ。都合の悪い解釈を排除するというものである。凡人は法を守れという発想だ。自身で考えろと言いながら、根底に為すルールを崩して構わないとは教えない。これまでがそうなのだから、これからもそうに決まっているという発想がなければ、破壊的な弱者を守らないような教えがあっても、牙を剥くことはない。破壊の裏の創造の価値を見出せるならばだ。そして、今日まで人と人は根底に対立する者という大前提があることを忘れている。だから新しいことを容易くは受け入れないし、そういう輩を見かけると「その人のせい」にする無意識が働いていることがわからないでいる。なんせ、心の傷に触れるからね。「人を傷つけてはなりません」という教えが、物理的な側面なのか、精神的な側面なのかも区別出来ない人が、人に言って従わせる。ただ、自分の心がまだ起きてもいない出来事に傷つきたくないが為にね。頭で思う思いやりと、相手が感じる心は全く別物だから、厄介なんだ。どれだけ誠意を尽くしても、相手に嫌われるなんてことはザラにある。報われないことなど、いくらでもね。報われるためにやりたいなら、報われないことを目的にすれば、すぐにでも報われるようなことに切り換えていけるんだけど、言葉でこれを説明するのは難しいよね。「報われない」って思いが既に「相手のせい」って痛めつける心の表れだと気づかないとさ。だから、あなたがどれだけ人を愛し、子を守り、生徒に全てを注ぎ込もうとしていても、自分を痛めつけている心が残る限り、それは痛手として還ってくる。それでも尽くすんだ。自分の心が傷ついているとは気づかずに、相手を愛し抜こうとするんだよ。相手(アスペの人)は疲弊していくし、どうしようもない行き場のない苦しみを味わい続ける事になるし、良くしてくれているとわかっていても、その場から離れたくなる。愛する人を最も痛めつけているのは自分だと気づいて、自ら「教えを守る」と決めた自分を見捨てて「教えない」自分に立ち戻ることが出来たら、「教え」という教えの意味を知ることなる。どれだけ丁寧に教えようとも、本人が望んでいないのであれば、それは意味のない教えでしかない。意味を与えるのは本人だ。「言う通りにしたくなる」気持ちじゃダメなんだよ。自分が人に教えて「言う通りにさせない」ことが出来たら良いんだけどね。つまりは、試して、体験して、繰り返して磨き上げ、新たな方法はないかと実験して続けて、言った通りにやらせることが出来てはじめて身についたなんて言える。でも、この世界は大体は「試して成功すれば出来たこと」になる。そうじゃなければ、明確な指標が定められないから。「こんなの出来た内に入らない」と言える人と、「やった、合格した」と人から認められることを目的にしている人との差は歴然と付いてくる。99点を取ってしまって「これではダメだ」と自己否定をする者と80点以上取れたから、「これでいいんだ」と自己肯定する者との違いがある。好感を持てるのは80点の方だ。それが教えの感覚に従う者の心理だよ。1か0かで考える者は、100点か、それ以外か? で見るが、グレーゾーンを作る者は、「段階がある」と見る。そしてその段階に甘んじる。「今こうだから、これを認めて」と言う。誰に言っているのやら? 自分を痛めつける心がなければ、人に要求することもないのに、「それでいいの?」と言われると、「いいの!」と跳ね返す。「まだまだ」とは言わない。今を肯定することが自身を責めることだと気づいていない。「今」は立ち止まらない変化し続ける事実に気づいていない。そして「やっている」と嘘をつく。それが「教えにしがみつく」者の言う台詞である。

「答えは言わないで欲しい」

謎解きは、自分で解いてこそ意味がある。ずるして、答えを知っても実力にはならない。そして本を読むバカがいる。

「本を読むこと=答えを教わる」
「人に聴くこと=答えを教わる」

なんの違いがあるのやら?

自分で調べることに価値や重きを置く人がいるが、本を書いた人に頼っている事実と、人に聴く事実との区別を明確に答えよ。相手の手間暇を奪う? 

そして、仏教やキリスト教、ヨーガ哲学などの世界では、書物ではなく、口伝でなければ届けられないものがあるという教えが存在しているのだが、それについて明確な解答を持ち合わせている者が「本を薦めている」のかどうか? それについて答えを持っているか自問してみたら良い。

世の中は、尋ねて簡単に答えてくれる人に、仕事を頼む流れになっている。手間暇を代行することで仕事になる。その人に考えさせたり、自力を見出すようなことよりも、「その手間、私が代わりにやりましょう。お任せください!」というのだ。

「そんなんだから、腑抜けになる」
「自分で考えられるようにならんのだ」
「いざという時、どうする?」

そうだね。その通りだと思う。
人が人を信頼し合う時代に入ってしまうと、頼れるのは自分だけだという教えが、本当に無意味になってくる。人と沢山関わり、人の役に立ち、便利に使われ、利用されるだけされる人の方が、仕事があり、豊かになり、より任せてもらえるように、頼られるようになる。利用価値もない人に仕事は来ない。それはマルチに何でも一人で出来るようになることよりも、一芸に特化して出来るようになる方がマシである。

でも、責められることになれてしまった心だと、あれも、これも、どれも出来るようにならないといけない不安さがつきまとう。そして「何をしていいかがわからない」という恐怖に落ち着いていく。「自分を痛めつけたい」というのは、本当にやりたいことをやらせず、いつまでも何も出来ない自分のままでいさせようという働きでもある。そこら中にいるんじゃないか?

答えを言ってあげるよ。

「その内わかるよ」

と言われたことが苦しみのはじまりだよ。
つまり、「永遠にわかることはない」ということが秘められているとは知らないということだよ。言っている本人は、「いずれ時が経てばわかるようになる」と思っているかも知れないが、受け取る相手がそのように受け止めるとは限らない。聴いている本人からしてみれば「答えられる人が答えてくれない事実」しかないんだよ。つまり、「人に聴くな」と解釈してしまう。

そして、そう無意識に解釈している人は、「何度言ったら分かるんだ!」と、自分は人に聴く耳がないにも関わらず、言うことを聴こうとしても聴けないアスペが自分の映し鏡とも知らずに執拗に責め続ける。諭し続けようとする。自分が人に聴く姿勢などないことを受け入れれば、自分の話を我が子や愛するパートナーが聴く耳を持たぬことに対して、腹を立てることや、嘆くようなことはなくなる(この部分において)。

「自分を痛めつけたい」から、自分の言うことを聴かない相手を責めてしまう。「その内わかるよ」という言うことは聴いているのにね。いずれわかる日が来ると待ち続ける。「いずれ」だ。今じゃない。だから、永遠と責め苦しませることとなる。それが行く付く先が若い人だというだけである。「その内わかるよ」と言われてしまう世代だ。わかるか? 40代、50代、60代ともなっても「いずれが来なくて、未だにわからないままでいる苦しみは、13歳、5歳、17歳が背負わしている図式」を想像できるかい?

これを読んでいる人は苦しんでいないから、実感はない。
いずれ時が解決するという事実を創り上げるため、自分が老いたら、若い世代に同じ苦しみを背負ってもらわないと辻褄が合わなくなる。「私も昔そうだったよ」と言うために、「時間が解決する」といういい加減な答えでその場をやり過ごされた苦しみをまた与える。若い頃、そんな解答を聴きたかったのか? とあの頃の自分に今の自分が言うのか? 「今はまだわからなくていい!」とでも、言うのか? 言いたいのか? 自分に!

人のせいにされてきたから、自分もひとのせいにするようないい加減なことを伝えていくのかい? 問いかけて、明確な答えを与えてもらえない苦しみをまた、与えて行くのかい? この歪み、いつ整える? また時間が解決するからと言われたら、納得するのかい?

「言う通りにしない」

と、自分に言ってやれば良い。

「気持ちに従わない」
「教えた者は、責任を取らない。責任を取れない事実に気づけよバカ。阿呆。間抜け。死んじまえ」
「納得したら苦しめないと知れ」

「相手の痛みも自分のものとしろ」
「相手の身になれ、だが相手の身になれることはない」

「誰かを否定して成り立つ教えでは、あなたが納得しないことに気づけ。そしてみんなも納得はしてない。みんなとは、敵対する側を含むぞ。敵味方納得する解を見つけろよ。言い訳するなよ。人のせいにするなよ。教えに従った自分の怠惰に気づけよ。教えを信じるから、気持ちの逃げ場がなくなったと知れよ。人は気持ちが大切だというなら、大切にしないことで大切にする人を大切にしている人の思いに気づけよ。《あなたが一番大切なんだよ》という言葉が、《それ以外の人はどうでもいい》と、聴かせられる身にもなれ。その《それ以外の人はどうでもいい》という思いが束になって、我が身に襲ってきた者の言動がどれだけ自暴自棄な発言に終始するか、思い知れよ。大事にするほどに傷ついていく愛する者たちの苦しみに気づいてやれるのは、これを読んだあなただよ。あなたが、みんなが大事、あなたが大事、そして何よりわたしが大事とすることでしか、自暴自棄にな追いやられるしかない者の苦しみを和らげることはないよ。《あなたが私を一番大事にしてくれていたんだね》と、気づいてやることだよ。してあげるんじゃなく、してもらっていたと気づけばいい」

「あなたには関係のないこと」
「みんなには関係のないこと」
「わたしには関係のないこと」

そういうことだ。みんな自分の問題にしたくない。
だから人のせいにするメカニズムはなくならない。
そして、それを支えにして物事を成り立たせているルールがある。

そのルールが、対立構造を生み出し、他者を責め、自分を責め、答えが出ないように袋小路と、迷宮へと追いやっていく。

救われない。

何故なら、愛する人に一度「それは違う」と否定されたからだ。
どうしてそのような答えや、行動に出たかを聴き出していくよりも先に、否定という答えを出してしまう。これにより、多様性の物事への解釈は断たれてしまう。「それもあるね。これもある。あれもある。どれもあるよね。その中で今、必要なものはどれだと思う?」なんて気の利いた聴き方をする人は少ない。

そして言葉を使わずに教えるなんてこともしない。
使うにしても、自分の気持ち全部を打ち明けることもしない。
自分が愛する人によって傷つけられたと気づきたくないから、「モヤモヤ」で済ませてしまう。「胸が苦しい」で終わらす。言葉に出来ないことで、コミュニケーションを断ち切ってしまう。それが楽だから。事実を見なくて済むから。家族という行き場のないところで、「違う」と言い続けられて育つしかないから。そして自分の苦しみを誰か、気づいてほしいと願うから、アスペルガー症候群の人が拾い出して、我が身の苦しみとして扱って動けなくなる。

「あなたは全部正しいよ」

そう伝えるよ。まさみちから、言うよ。他の誰も言わなくても、私が言ってあげる。

「間違いなんてない」

「そのまま行けば変わっていける」

「知らないから、知っていける」

「やってみたら、やれた」

「言うからそうなった」

「みんなの気持ちが知りたいから知れた」

「みんなが苦しんでいるから、私が助けに来た」

「もう大丈夫だよ」

「ここに居るよ」

「どんなあなたも好きだから」

「好きだから嫌ってあげるよ」

「嫌ったまま好きでいるよ」

「好きだから好きなんだ。だから側にいるよ」

だから、楽になれ。

あなたの苦しみ全部引き受けても、倒れないでいる姿を見せてやるよ。ここにおいで。抱きしめてあげるから。

以上です。

 

 

これで楽になれたらめっけもんだけどね。
動けたらいいよ。
はまり込んでいる人は、何やっても動けない苦しさは当事者にしかわからない。
そしてその身動きを封じているのが自分だとも思わない。

心と心が繋がりあって、それをセットに捉える心でも無ければ紐解けない。

アスペルガー症候群の問題は、人と人との間にある心を紐解かないといけない。だから対象がないとダメなんだ。単独では生まれない。街と人、グループと人、いろんな関係という間で保たれている苦しみとでも思ってくれたらいい。

 

そしてそんな苦しみは、状況によっては無視出来る。
だから、端から苦しんでいるようにあまり見えなかったりする。
リストカットでも起きればまだしも、そうでないなら、深刻化して見ない。見ても答えが自分にあるとも思えない。自分にあると知ったところで、紐解き方がわからない。

 

まずは自分の目先の問題を一つひとつ紐解けるようになることである。

 

大事にされている感がないのは、あなたを愛する人が自分を大事にしていないからだよ。

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