心機一転 奈良市民

奈良市西大寺南町に越して参りました。

大和西大寺駅は便利という言葉通り、便利っぽいです。

見知らぬ土地に移り住むのは、何とも心細い気もしますね。それでも住めば都ってくらいに、住んでいる内に慣れてしまうものというのもね。

ささ、新たなステージに移っておりますよ。

まず、報告は、相方だったミーさんと離婚したことと、彼女が大きく飛躍し、人が変わったかのように美しくなったということ。

離婚というの形をどのように解釈するかは、人それぞれだと思いますが、より良くなっていると捉えられる心で見てくれると嬉しく思います。

コンシェルジュのミーは、個人セッションをはじめております。

彼女の定評は「ホッとする」気持ちに落ち着けるということ。

 

私自身、彼女の解説やまとめ能力の卓越さは舌を巻くほどの優秀さを見せているものの、本人にその自覚が乏しく、自発的に何かするというものが決して生まれることはなかったのです。

優秀なものを持っていても「私は、熱意も、役に立ちたいとかないし」って口にしてしまうんですよね。

言霊は、その通りに向かわせてしまうもの。

かつてパートナーだった、私にガンガン言う訳です。

「だから、個人セッションとか無理」みたいに、結論づけてしまうのです。

 

何かに挑む前に、猛烈に「する気が無くなる感覚」ってわかりますかね?

 

もうね、こういうのを前にして本当に困り果てるのね。「良いものあるのに、ないと言い張られる」現実に対して、どうしてあげたらいいのかってもの。

 

それってさ、私みたいな奴が側に居るから、「要らない」って感覚しか湧かないの。

まさみちってば、深層心理までアクセスして、その人自身さえ知らないものを表に出して、解決に導くようなセッションするから、目から鱗どころか、どこまで自虐精神で生きているのかって呆れるくらいに笑わせられるほどのオチに持っていくんだけど、優秀過ぎるから、隣に居る人が白けるのね。

出来る人をより際立たせるには、出来ない人を側に置くこと。

 

そしたら、錯覚効果も合わさって、より優秀に見えるの。それがサポートだってなるのね。

いやいや、そうじゃなくてさ。って思うけど、ついつい、こういう関係ってやるんだよ。

出来る兄に、出来ない弟。出来る姉に、出来ない妹。みたいな?

 

出来ない親に、出来過ぎた子とか。出来過ぎた親に、全く何も出来ない子とか。さぁ。

 

ね?

 

どうしたらいいの?

 

離れたら良い。

 

確信無いまま、放り出したらいい。

 

残酷でしょ?

冷酷でしょ?

 

酷いったらありゃしないけど、親がいる内に、親が無能化してみせて、子に全部押しつけるとか、放り出すとかすると子は育つけど、親が有能さのまま、子を有能に育てようとすると無理がかかるのね。その必要性が、子に伝わらないの。よく、親が死んでも自活出来るようにって親は何とかして社会性とか身につけて、仕事が出来るようにしようとするんだけど、手を貸している限りは絶対自活しないのね。その能力があっても発揮しないの。する必要がないから。

 

でも、親が手を貸さなくなると、子は自然と出来るようになるし、動けるようになるのね。
それには、子も子で、親など「要らない」なんてしないとダメだったりする訳。これが出来ている子は、親が構おうとしても撥ね除ける力があるので自活できるの。でも、思いやりに溢れる子は、親をないがしろに出来ないからいつまでも「親が必要なの」って可愛いことを言ってしまうのね。そして、何も出来ないままの子が育つのさ。こうなると、中途半端にしか自活出来ない子になり、何をしてもやる気が湧かない、出ない、したくない、どうせ私はダメなんだ理論にはまり込んで動けなくなるの。

 

だから、根拠無く強制的に外に放り出すといいの。

 

それこそ、災害にでも見舞われたごとく、親が死んだ、家がないなったなど仮説を立てて、飛び出していけばいいのよ。なんとかなるって。くらいに、飛んでいけばいい。

 

離婚をきれい事呼ばわりするつもりはないけど、きれいに捉えられる解釈があるなら、それは持っておいても損はしないと思うのね。実際に、ミーさんは活動し始めたし、なんせ魅力的に変わっている。美しい!!

私が居たから、って言うと本当に私に問題があったとしかならないけど、まさにその通りだったから仕方がない。色んな事で彼女は大きく変貌を遂げて、出来る子に変わったんですよ。

 

 

自分を大切にすることを思い出した彼女は、誰に対しても大切に出来るように変わっています。
これまでは、どこか自分を投げ捨てているところがあって、他人に優しくしても、自分は冷めた気持ちの中で自傷(笑)していたの。それが彼女の世界に影を落としていたのは、大事にされ過ぎた故に、出来ない子のままが一番生きていく上で最適な態度として振る舞うことを強要されてしまっていたのね。だから、その呪縛を解きたかったの。でも、一筋縄には行かないの。大事にしながら、もう「私は要らないよね」って、突然居なくならないといけないのだから。

親がこの前から居なくなる時は、そうした突然なことばかり。

それを意図的にやったら、非難囂々(ごうごう)でしょ?

離婚はそんな側面もあったの。美しく語るってのは逃げ口上のように見えるだろうけど、今活躍しはじめている彼女を見て、誰よりも嬉しく思っている私がいるからね。

 

「ほら、一人で出来たじゃない。」

 

って、言葉をみどりに贈ります。

 

いつも、幸せの中だったろ?

 

ってね。

これからも、変わらず幸せの中にいるよ。うまく行くから、楽しんで行けば良い。

 

そんな訳で、彼女のセッションは、私まさみちの直伝で育て上げた解釈で裏支えされたものです。

何より、「何も出来ない」と言い張る彼女が、自身の体験を経て「何でもやったら出来るもんだ」って変わったことがあなたに力を与えてくれます。誰よりも出来ない体験を持つ彼女が、関わり方1つで出来るようになってもいいんだと変わってこられた体験を持っています。まさみちのように、やれば何とかなるだろうって考えの持ち主は、何をやってもどうせダメになるだろうって考えの持ち主とは相容れないもので、数多く衝突してきました。彼女にしか解らない嘆きがたくさんありました。その一つひとつを、共に涙するだけで、彼女は出来るように変れたのです。出来る人は出来ない人の心がわからなくて苦しみます。出来ない人は出来ないから苦しみます。その両者が、交われば共に苦しみます。それでもその苦しみの一つひとつを解ることで、楽に変えていけます。彼女は出来ない人でも出来るように変れる道筋を体感で持っています。まさみちは、出来ない人でも出来るように変えられた体感を持っています。互いに高め合えたのです。

素晴らしいパートナーです。

 

共に居ることだけがパートナーというものではありません。
退くことで、育てることも道としてあります。
互いに分かり合えば、より良い関係も築き挙げていけます。
嫌ったから別れるのではなく、より高め合うために別れるという道があるだけです。

信じている気持ちがあるなら、別離ということが必ずしも悪いものでは無いことが見えて来ます。
死に別れなら、諦めて受け入れるの?
嫌いになったからだったら、受け入れられるの?

高める為に、より相手の幸せを叶える為に、離れていくことは受け入れられないの?

物語の中なら、美しいって見てあげられても、リアルで体現する人に、何と言葉を贈るの?

 

「幸せをもらったよ。」

 

そう伝えてあげられたら、言った人も言われた人も幸せだよね。

 

 

まさみちは、幸せです。
奈良の新天地でまた、新たなステージをはじめて行きます。

 

 

無力な音の世界に踏み出します。

 

 

 

わかり合えると人は幸せしか感じない。

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