彼氏彼女の事情 その22

岐阜県の郡上に来ています。
郡上の徹夜踊りにやって来て、今日は前夜祭の隣町白鳥町の白鳥おどりを堪能してきました。

楽しかー(≧▽≦)〃

しかし、泊まったペンションが電波なし状態で、何も出来ん感じ。
まぁ、車で少し出ればいいだけなんだけどね。

今日も引きこもって、自分の新たな領域(またか)を紐解いてたりして。

それも一段落したので、久し振りに書きかけの彼氏彼女の話しの続きを書きました。


 

11.「理解不能な行動に出てしまう」

振り返ると、何故そんなことをしたのか自分でさえ理解出来ないことがある。これを人に説明するなんて出来ない。むしろ、自分が聴きいたいくらいだ。

「あなたがやったのでしょう?」

確かに、その通りだ。

自分でやった。

それは認められる。

でも、「何でやったか?」などと尋ねられても答えられない自分に驚いたりする。

確かに何かあったような気はする。

その時は、それをするものだという気持ちでもいた。

けれども、叱られている時に振り返ると、どうしてそれを選んだのか、皆目見当もつかない。わからないのだ。わからないのだから、「わかりません」と素直に答えても、「わからないはずがないだろう! いい加減なことを言うな」と怒鳴られる。

大体は「ごめんなさい」と言わされて、「もう二度としません」と約束させられて、時間切れみたいな誰も納得行かないような形で終わらされていく。

アスペルガー症候群の全体性の役割として、無意識にその場のバランスを取るような行動に出たりもする。だからといって、アスペルガー症候群を不用意に擁護するばかりのものでもない。定型の人からしたら、たまったものではないだろう。それに原因は悩んでいる本人に糸口があるというのは、アスペルが悩んでいるなら当人に。定型の人が悩んでいるなら定型の人に、道があるということだ。

原因というものは、常に問い詰めていく当人に問題が見えてくるように出来ている。そうでなければ、預かり知らぬ他人の心の問題、責任転換という図式で幕を下ろすような結論を出してしまい、再発防止もあったもんじゃない。罰則規定で改善が見込めないなら、それでは再発が防げないことに気づく必要があるのだが、「理解不能」な出来事に関しては「壊れている」「頭がおかしい」「狂っている」などとして扱うくらいしか、自己正当化出来る弁解が見つからないのだ。これも、「人のせい」にしている言葉だとわかるだろうか?

こんなことを書いても、臨床の現場に立っていない者の言うことなど当てにしてもらうものでもない。現実的に、アスペルガー症候群の酷いものは人の話が全く聴けないし、情緒不安定になって制御も何も効かないような状態に陥ることがある。そこに私が関わったから「はい、解決」とはならない。それこそ、時間かけて丹念に解きほぐしていく作業が必要になる。様々なものが絡み合っているからだ。問題が一つだけならいいが、複数絡み合う場合などは「一つの解決策」ではラチが空かない。そして、アスペルの人はそれを解説する力もない。

今、このようにわかっているかのように書いているが、通常の心の領域とは全く別領域に、アスペルの問題はある。読み解く時に使う意識の使い方もこれまでとは違う。無意識に出来ることもあるとは思うが、向ける先が違うので大体はこれを問題とは扱わない。性格とか個性とか、そういうものだとして扱う。「理解不能」な場合は尚のことだ。探りようがない。心の合わせ方を知らなければ、紐解くことも出来やしない。集合的無意識に飲まれているとか、従っているとか、自身の破滅的な言動に従う心など「狂っている」と見るくらいしか納得する言葉が見つからないからだ。

どうしてこんな風になるのか? 何故、誰もが喜ばずに、誰もが納得出来ないような不可解な行動に出てしまうのか?

一つに、規則に対して矛盾する行動に出る人たちに対して、理解出来ないことがあげられる。

交通ルールという規則に対して、「守りましょう」と言う人が、ある限定される条件下では、規則を守っていないでいる。言っていることと、やっていることが違うのだ。そして「嘘をついてはダメです」「正直に生きましょう」と言い、本音と建て前を使い分けるような行動を平然とやってのけてしまう人に対して、「規則を破って速度超過などしていながら、嘘をつかずに、正直に生きる姿」を理をもって、解説してもらいたい。

一文の中に矛盾が含まれていながら、それを理をもって整然に解説することは出来ない。少なくとも私には無理だ。こうしたことをやる人たちに囲まれているなら、その中に留まらなければならないアスペルの人にとっては、ある時は右の規則を守るに振れ、ある時は左の規則を破るに振れ、という行動に出させられてしまうというのなら、人の心の内を体現しているという見方が出来るだろうか?

規律を破るに振れそうになるのを理性で抑えるという人がいるだろうが、アスペルのように「どうしてそうしたかわからない」という体験がある人なら、「そういうことか」と納得するし、「理解出来ない」としか思えず、自分の欲望のままに生きているだけだろうって解釈する方が、万人が納得する答えとなる。

アスペルは「自身が納得する」を優先するし、定型の人は「万人が納得する」を優先する傾向がある。知性が高まれば、どちらも価値感の多様性として受け入れられて行くものだが、当事者は相手の非を認めさせたい欲求に取り憑かれている手前、価値感の多様性として幕を下ろしたくない。よって、力のある側が一方的に規則を破った者を処罰する権限が与えられ、それをふんだんに行使する。アスペルの人は、なんでやったのか? その原因たる気持ちがわからぬまま責め続けられることになり、「反省の色がない」と、反省しようにも原因を見つけ出せない状態で「すみません」「ごめんなさい」を連呼しても、「謝ったことにならない」として許されないまま時間だけが過ぎていくこととなるのだ。

責める方(定型の人に限らず、アスペの人も責めることもある)も、問題の本質は全体のバランスの中にあるなどとは気づけない為、原因は規則を破った、知ってて守らなかった点を猛烈に責め続ければ改心するという幻想に取り憑かれているため、問いかけそのものを改めることも出来ない。

アスペルガー症候群の問題を紐解くには、持っている解釈の全てを手放す心が必要で、これを「無執着の心」と名付けるが、これが出来る人は般若心経など仏教が伝える「空」という意識の使い方を体得した者でなければ読み解けないものである。よって、凡人の頭では理解不能ということになり、紐解くどころか、より歪めてしまうことか、対処療法を積み重ねて「そういうものだ。仕方ない」という諦めの境地で接するくらいが関の山となる。

これではラチが空かないので、「空」の意識が使える方を対象にしたレクチャーをするなら、「心が自然と向かうところに合わせる」だけでいい。心は、アスペルガー症候群についての問題を解決したいと願っているので、願った通りの事が現象化する筈だ。だから、心に委ねれば自然とそのように紐解ける境地に移行する。それに従い、思いが閃いてくるままに言葉に出せば、アスペルガー症候群に囚われていた心を解放することが出来る。

やってみて欲しい。

その中で、理解不能だと思っていたことが、理解出来る道筋が降ろされてくる。どうすることも出来なかった思いが、紐解かれて解消されていく。受け入れられてしまえば、なんであんなに苦しかったのか? と夢のような心境になるものだ。それだけアスペルというものは、取り込まれた状態は息が出来ないほど苦しい思いに悩まされる。自分の意識でアスペルガー症候群の状態から、通常意識の状態に抜け出せればいいが、本人も気づかずに変な状態に陥るし、陥ると、周りは優しくなくなるから踏んだり蹴ったりでしかない。それをわかってくれ! としていても、世の中がやっと「発達障害」という病名を与えてくれて、ひとまず休息出来るという程度である。解明にはまだほど遠い。

理解不能なことは、理解されたくない何かが隠れているものである。大体は、人のろくでもない「想念」とでも思ってくれたらいい。妄執でも、怨念と呼んでもいい。こうした思いに囲まれてしまったアスペルガー症候群の人が、おかしな行動に出るのだ。そのアスペルの人を取り巻く人間関係の中で、かつて「酷い目に遭った体験」を皆が口々に語り出せば、その妄執や怨念といった想念の一部を垣間見ることが出来る筈だ。ただ、それを口にしたいと思うか、本人さえも忘れてなかったことにしていることを思い出せるか? という問題がある。原因を解決出来ないものの、緩和するには、周りの人総出で祭り囃子など聴かせて、笛や太鼓に合わせて踊ればいいというのもある。好き嫌い、惚れた腫れたなどの人間模様の中で培われた妄執が、流され消えていく。祭りにはそんな役割がある。現代(2017)ならよさこいでも、恋ダンスでも、流行の踊りで構わない。太鼓の音は体にも心にもいい。アスペルガー症候群の人にもいい。その周りの人も一緒になって聴くのが一番効果がある。一人だけでは意味がない。そこが問題点である。アスペルは全体性の問題であるため、全体が取り組まなければ解決の方向へと動かない。周りも巻き込んで行く改善策を見出していかないとうまく整わない。

真因としては、「言うことを聴きなさい」という親や師の教えによって、その親や師が、言ったことと違う行動に出たとき矛盾が生じ、それを口にしようものなら、「大人だからいいの」とか、「これは許されているの」と自己都合の権限を振りかざして、納得出来ない答えを自白したときに、妄執や怨念というものは発生するものだと気づいて欲しい。これはアスペルガー症候群とは関係がない。誰との間でも起きてくる問題であり、そのデタラメな関わりをすることで親や師の威厳を失わせ、信用を失墜させ、それでも言われたことは守り続けなければ処罰されてしまうのはこちら側という不満が、想念となって空間に広がっている。この想念を拾い受けて、体現するのがアスペルガー症候群の人たちである。その為、本当にろくでもない事をしでかすのだ。犯人はやった人であり、言っていることとやっていることが違う人は咎(とが)められることはない。大体は、咎められないから、言ったことを守らないでいるのだ。「嘘をつくな」と教えていても、自分は「思いついたことを言わず、違ったことを言う嘘を平然とついていたりする」のだ。表の心、裏の心と、子供の見ている前で、手の平を返すような姿を見せていることなど、誰だってあるだろう。それが真因と言われても困るだけだ。直すなら、「この人たちは悪い人たちなんだな」と理解してあげればいい。つまりは、ほとんどの人たちは言うことを聴かせることと、自分の立ち振る舞いが完全に一致している人はいないから、みんな悪い人たちとなる。悪い人たちだから、恨むも何も普通だから放置したらいいと気づけばいい。妄執や怨念を持つだけ疲れるというものだ。悪い人は治らないから、そっとしておいてやればいい。自分の悪いところも責める必要がないから、許して放置してあげればいい。何もしなければ何もしないのが悪い心である。頼むから何もしないで、そのままにしてやってくれ。治るから。

以上が、「理解不能な行動に出る」アスペル反応の対処法だ。
少しは気が楽になれば幸いだ。

 

苦しめ合うことなどないのにね。

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