我が儘な世界でわがままでいる

右眼が塞がった。

腫れ上がってきた右眼は、腫れたり引いたりしていたが、今朝有り得ないほど腫れ上がって右眼を塞いでいた。

肌寒くなりだした、9月の朝である。

 

「つまらないことはするな」

父はよくそんな言葉を放っていた。

「くだらない」

吐き捨てるように、私の見ている子供向けのアニメを評価した。

どうしてそんなことを言うかが分からずにした。

これ、大人が一生懸命作った作品ではないの?

 

どの世界にも人の手が加わり、それを望んでいる人がいて、それを与える人がいて成立している。つまらないことも、くだらないこともない筈なのに、それを馬鹿にされる理由がよくわからずにいた。

父の無理解を気にしながらも、アニメを見ることはやめることはなかったが、どこかいつまでも胸に刺さった棘のように、この日のことを覚えている自分がいた。

 

私は普通のことが出来ない人になっていった。どうして普通にしていられないのかがわからずにもいた。特別になりたいとも思ってはいないし、普通のささやかな幸せであれば、それで良いだろうとさえ思っているところはあった。大それたことをしたいとか、何か大きな夢ややりたいことがあるなんて思ったことはなく、コツコツと働き、出来れば手に職をつけて、人から一目置かれるような生活が出来れば万々歳ではないかと思う小市民であった。

高校から専門学校に入る時でさえ、理想を追いかけている姿として、先生の勧めでもある東京の学校へと愛知から越して進学したりもして、「普通の人」とした生き方だと思っていたし、少なくともつまらなくもないし、くだらない人になろうとはしていないとしているつもりであった。父もお金を出してくれて、東京行きを反対することはなかった。

そう、父を説得したことはない。

障害になっている気がしたことがあったが、障害として乗り越えていく過程を体験はしていなかった。

 

眼が腫れた。

 

目の上のたんこぶなどという言葉があるが、目障りであり、邪魔され、思うようにならず、被害妄想に明け暮れるといった意味合いが人相学ではあるそうな。実際、まぶたが垂れているひしゃげている感じの人を見ると、なんと憂鬱そうで、元気がなく、つまらなさそうにしているんだろうと思えてきてしまう。口に出さなくても他人を見て「くだらない」とか思っていそうだ。

私ももしかしたらそんな風に思っているのかと、鏡映る自分の顔見て、ため息をついた。

何を吐き出したのやら。

 

これでは四谷怪談のお岩さんではないか。

 

騙されてもいないし、恨む相手もいない。自傷気味に笑いつつも、自分の眼が腫れていくのは嬉しいものではない。それとも騙しているのか? 恨まれるようなことをしているのか? そう考えれば思い至らないこともない。私のやっているカウンセリングなどというものは、詐欺暴きに近い。「寂しさがあったのに、ないでしょ?」と魔法をかけたかのように消してしまうのだ。その寂しさ故に、夫婦仲が悪くなっていたのを良くしてしまうのだ。良い話しだと思うかも知れないが、「寂しくもない出来事を、寂しく思わせた犯人は誰だ?」となると、「みんな」という得体の知れないものとなる。みんなが、人と別れるのは悲しいとか、人と離ればなれになるのは苦しいと教え合ってしまったから、別れても離れても悲しくも苦しくもなく、ましてや寂しくもないような状態にして「愛されている充実した毎日」にしてしまうと、夫がどこに出かけようが気にもせず、自分がどこの誰と遊んでいようが嫉まれないということが起きてしまう。では、これまでの悲壮感漂う、苦しすぎて、寂しすぎて、悲しすぎる人生は、「みんな」のせいだってなる。みんなから「騙された!」ということになってしまう。

それ故に「みんなから詐欺をかけられていたことを教えてしまうカウンセラー」だったりするから、みんなから疎ましく思われ、恨まれるなんてこともあると考えると、そこは納得するしかない。

 

良いことをしていても、それまで「普通にしていた人」からは、「それじゃダメでしょ?」と名指しされるほど嫌な気分にさせられてしまうのだ。「みんな」は「みんな」だから、誰もが該当者になってしまう。「え、この考え、価値感、違うの? 寂しいがあっても、喜怒哀楽の感情の一つだから残していてもいいでしょう?」と思うような人からは、寂しさを消して無くしてしまうような人なんていたら困る。何だか悪いことしているような気にさせられてしまう。誰、そんなことをする奴? と探せば私が見つかることになる。

「くだらないことするな」

と嫌われてしまうというなら、うん確かに、嫌われそうだ。

 

こんなものはもう一人妄想の世界だ。まさに、くだらない。
自分の無意識のうちにそんなことを展開して、自分の肉体を通してお岩さん状態にしてまで、これを伝えてきたのか? とか思ってもしっくり来ない。それはそれであるとは思う。妄想好きの私のことだ。無意識にそんな夢物語でも描いていることだってあるだろう。

しかし、くだらないことは、存外楽しい事であるし、そのくだらなさに情熱を注げる遊び心というものは無くてはならないものでもある。想像性を花開かせて自由に思いを巡らせる時は心地よい。そこには喜怒哀楽が多分に不可欠であり、脇役の優秀な教授や、博士よりも、欠点だらけの主人公と、その仲間たちの方が好まれる。私は至って脇役で良いから、教授や博士がいいと望むが、みんながそうとは限らない。それに教授や博士となると、ましてや同業としての作家や脚本家となると、喜怒哀楽を奪い去る至福しか与えないような心に整えていくことが本当に良いことなのか疑問になる。

決して、寂しさや悲しさがわからなくなるとかではなく、かつての記憶にそうしたものが「あったなぁ」という概念的なものとなり、実感の薄いものとなる。こうなると、何かしらの不幸や、悲しみや、寂しさといった気持ちを土台にした幸せ感や、好みや、相性の良さというものは共感しにくくなるんだ。共通の敵を作ることで、仲間意識を持とうとする働きがあるように、何かを対立させることで、こちら側は仲間で、あちら側とは相容れないという対立を作り、その反発と共感が一致した人と連むことで楽しさにしている人とは一線を引くことになってしまうのだ。なんせ、対立しない。どちらとも共感しなくなる。

偏りがあることで生み出されていた様々なものが、偏りがなくなることで、好き嫌いの激しい人から、好きしかない穏やかな人となり、あれもこれもやって楽しい! ってしていた人から、これを追求したい! って熱中するものを見つけて没頭するようになる生き方に変わったりもしていく。無駄な消費から、遊びの消費となり、身につかないものから、身についてしまうものしかしない効率の良さが生まれるが、障害のない人生の何が楽しいの? って考えるみんなからは嫌われることとなる。好きなことだけしていても障害はある。未知なる自分に出会う為の苦労はあるからだ。けれどそんなものは苦労とは言わず、楽しくてたまらないものでしかない。

 

ただ、こうして心の事をしてきて思うのは、自分の心の中で思っているものは、以外にも現実とはかけ離れたものが多く、誰もそんな風に思ってはおらず、みんな人が良く、楽しくしようとしており、寂しいことよりも嬉しいことをしたがっているんだと思っている。

 

それがわかった昨今ですら、自分の思っていることをズケズケベラベラしゃべっているかというと、そんなことはない自分に気づいた。この腫れた眼のお陰だ。何を目障りと見ているのか謎だったが、簡単なことだ。

 

「みんなに合わせられない自分が嫌いだっんだ」

 

どこかで折り合いをつけるだとか、目線を合わせるだとか、嫌われないような創意工夫を凝らせとか、あれこれ人とのコミュニケーションを取りなさいというが、それがどうしても出来ない自分を嫌っていた。一般的解釈に染まっている人とは、本当に相容れないでいる。そこの障害を取り除こうとしていたが、灯台下暗しというか合わせようとしていたことにも気づかないし、合わせられないことで他人が不快さを露わにしてくる原因を見つけ出すことさえ出来ずにいた。

そら、眼が腫れてでも教えてくれるってものだな。

 

人と合わせられない。みんなと合わせられない。
標準的な定義に収まらなければ、軽蔑の対象でしかない。
嫌われて当然となる。
だからと言って治す気がないわけではない。こんなものを放置して何の得があるというのか?

みんなに合わせない得は、「一人でやれる力があると示せる」というものだ。

そう、私のやってきた道筋は、どれも自力だし、もちろんみんなや一人ひとりの協力も受け手のことだから、一人で出来ているなんて思ってもない。しかし、免状があるかといえばそんなものはなく、自己投資額も知れたものである。言いたいことは、みんなと指してもらっている情報は変わらないよ。というものだ。それでいて、これだけのことが読み解けることは本人の思いの強さでどうとでもなると示したいだけなんだ。

 

それに対して、みんなはどうだ?

「みんな」というのは自分も含まれるから、自分も笑っていることなのだが、多数に紛れ、横を見合わせ、個を消して体制に染まる。みんながリーディングできないなら、しない。みたいな心でどうするの? それ本当にみんなと合わせていたいの? という気持ちがあることに気づいていなかった。

私は、みんなに合わせられないことで、一人でやるしかなかった。
合わせようにも合わし方がわからないからだ。

この分離感を見つけた今なら、元に戻せるかも知れない。

 

つまらないことはしたくなかったし、みんなから笑われるような真似はしたくなかった。嫌なのは嘲笑の的となることだ。しかも、私に出来て、みんなには出来ず、そんな人たちに囲まれて笑われるのは嫌なものだと気づいた。みんなには出来て、私にだけ出来ていないと笑っているのだろうが、それはみんなが言ういじめに相当するのだから、それをしてどうすると反感を抱いていた。

つまらない。くだらない。

まさに、自分の狭量さが浮かび上がる。
多数の出来ない人たちに囲まれて、笑われることに何の問題もない。
笑ってくれている行為そのものが悪いのではなく、笑われていることを悪いと見ている自身の心に闇があることを指しているに過ぎない。全く、自分の価値感にしがみついていると、受け取り方さえ間違えて、引きこもるのだから厄介極まる難題だ。相談するきっかけも抱かないから、右眼が腫れるのだろう。

結局、私はみんなのことを馬鹿にしているのだ。
「みんな」という個別には存在せず、集団の時にしか現われない無意識の集まりに対してやることだ。
こんなものがあったら、楽しめない。みんなと交われない。
協調性も共感性もよくわかる。絶対的に必要なものだ。集団になると、その大衆に飲まれ、個を失う。うん、それでいい。個がある集団でも、ない集団でもいいと思っていた。
けれど、実際はどうだ? 何故群れることを嫌う? 何かに所属することを由としない?
何を隠している? どんな目に遭うのを避けようとしている?

みんなの中にいる自分は、何もしないになる。
みんなの中に入ってしまうと、個としての働きをする必要がなくなる。そうするとどこかしら、誰かが担えることしか思いつかない為、だんまりを決め込んでも問題にならない。借りてきた猫状態となり面白くない。だから所属しようとしないのだ。そして所属させたとしても束縛しない。団体などの所属に何も望まない自分になるのも嫌なものだった。リーダーがいるにしろ、いないにしろ、みんなで決めていくことなのだから、意見は出していくが、嫌い合わない関係性を望まれると、それだけでゲンナリする。改善は耳の痛いものが普通だし、出来ていないところを口にするのだから、嫌われる可能性があるが、本当に嫌ってどうするという気持ちがあることに気づいていなかった。私が嫌わせていたんだ。だから、私の発言で不愉快に陥らないように、人の心の痛みを全て知り尽くそうとしていた。ここに自分の闇があるとも知らずにね。言葉が伝わらないもどかしさをどうして良いかが分からないだけだった。教えを聴いてもわからない自分が嫌だったんだよ。

真剣に取り組んだか? と言われれば違う。取り組んでいたかも知れない。幼き日々は、テストの点や成績は高い方がいいに決まっていると思って頑張っていたが、頭に入らなかった。面白くない、楽しくない。二十歳前になってはじめて小説を書き始めたときに、自分が何も勉強していないことに気づかされて愕然とした。面白くない、楽しくないと勉強嫌いの私が勉強しようと思うようになった。

なんせ、文章が書けない。

学校は、文章を書く魅力は教えてくれなかった。私はそんな風に解釈していた。「何もしてくれなかった」と。

 

みんなが作った、学校システムに対して、これは学校とは言わない。と否定していたんだ。

小学校の間にありとあらゆる才能の可能性の芽を潰されてきたのではないか? と本気で思う。絵を描くことだけは、保育園の時から得意であり、そこを潰されることはなかったが、勉強の仕方や学び方の工夫というコツ勘を掴むことが出来なかった為に、ありとあらゆるものが楽しくなかった。今、文章を書くのはとても好きだ。

最初からこの楽しさに触れさせてくれていたら、私のような歪んだ心を養わずに済んだと思いたい。

 

どんな環境でも、才能を開花できる心であること。

 

そんな言葉がフッと浮かぶ。

確かに、どんな環境でも、環境や時代のせいにして、やりたいこと、出来ることを諦めて、卑屈に生きるのは違うと思う。みんなに依存して、みんなという集団に飲まれて、個の可能性を捨てるのも違うと思う。だから、立ち上がった。気づいたら立てていたようなものだがな。

一般的な小市民的な小さな幸せを目指していたのが私だ。

何か大それたこととか、トップを取るなどという馬鹿げた夢は、最初から沸々と思い描けるような特殊な人のものであって、私のようなどこにでもいる変わった奴で、みんなに馴染むことが出来ない協調性を欠く輩には無縁の話しだと思っていた。

 

誰にも望まれていない。

必要とされていない。

聞こえの良い言葉で、いくら説得されても実感が湧いてくるものでもない。

手順を重ねて喜んでも、束の間でしかない。

我が儘だと嫌われ、わがままになれとはやし立てられる。

その違いもわからずに、都合良く切り換えて、悪化の方へしか向かうことが出来ずにいた。

どうせ、オレなんか。

 

卑屈になるつもりはない。そんなことを口にしたところで意味はないと思っていた。

違った。

わがままになるなら、言わなければならない。

どうせオレなんかが何か出来でも、誰も評価などしてくれないだろう?

落ちこぼれのオレが優秀になって、褒め称えられるほど出来た人間が、「みんな」という得体の知れない集合体にいるとでも? 個々は褒めるだろう。あなたは喜んでくれるだろう。でも、みんなは無視だよ。絶対認めたりはしない。そんなこと認めたら、誰もが落ちこぼれではなくなる。みんなで優秀さに気づいてしまう。

そんなことが起きるはずもない。

 

そんなバカげたことを思い込んでいた私が居た。

笑えるわ。

そりゃ、みんなから指さして笑われるわ。

一緒になって笑うしかないわ。

あははははは。

これまで、自分が言っていた理論を見事に踏襲するような馬鹿っぷりと、莫迦な話しだ。

みんな優秀に決まっているじゃないか。

 

くだらないことをしていた。

くだらない人間になっていた。

 

父さん、もうやめるよ。

くだらない遊びはしない。

 

みんな褒めてくれた。絶賛してくれた。讃えてくれた。成りたいと言ってくれた。

変わろう。変えられるのだから。はじめよう。もう、はじまっているから。

 

何もわからなくても、わかる道がある。

誰にだって持っている「わたし」という凄いことが出来てしまう空がある。

それに触れられたいい。

 

みんな優しくなれる。

優しい人への成り方を教えてあげられる。

聴きたい人はここへおいで。

教えるよ。

 

その前に、歴史の嘘を暴く話しを聴いてみないか?

すっごく面白いよ。世の中をペテンにかけている話しばかりなんだよ。

嘘だと思うなら、聴きに来なくていいい。

つまんないと思うかも知れないし、くだらないと言うかも知れないね。

それでも、聴きたいと言ってくれるなら、話すよ。

私は噺家だ。

いくらでも物語を作っては話して聴かせよう。

 

あなただけの物語を教えるよ。

 

みんなが幸せになったお話しをしよう。
最後まで起きていられるかな?

 

 

優しい心で出来ていた。

右眼の腫れで塞がる部分はフィクションです。
今朝も変わりなく普通に腫れてます。

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