風が吹き抜けていく

「近頃と言えば」、そんな言葉を使おうものなら、ものの見方の偏り具合を疑われて、肩身の狭い扱いを受けることになる。そして、同じ価値観を持つ者同士肩寄せ合って仲間外れにしてきた人たちを偉そうに批評しては、せせら笑って、自分たちは幸せだと言い聞かせる。

 

「幸せですか?」

と、聴いて、口々に幸せと答える人たちがいる。

「幸せですか?」

と、聴いて、「今ひとつ」とか「何をもってなのか」とか、「今、急に不安になりました」とか、自分の感覚が変化するまま答える人たちがいる。

幸せなんて言葉は、いい加減なもので、不幸という言葉がなければ成立しない相対的な差で生まれるものだから、不幸を抱きしめている人の方が「幸せです」という言い方が出来るとも言えば、不幸に触れられる私は幸せの立場からしか言えないのだから、「幸せです」と言う人だっているだろう。こんな風に考えると、誰もが皆幸せだと定義されてしまうから、本当にいい加減なものだ。

 

しかし、人はどうやら不幸を遠ざけて触れられたくないものでもあるらしい。

よって、不幸をどれだけ敵視して、遠ざける力を持っていることを幸せだと認識する人は、「嫌」という言葉を使う傾向が高いようだ。「嫌」という言葉を聴かされる側からしてみたら、不幸を与える嫌味な存在だと扱われるので、そんな扱われ方を相手に与えてはならないとして、「嫌」に従い、「嫌」を与えて離れていくこととなる。本人は自分が「嫌」と放っているので、「嫌」を受け取り、自分の幸せ感を守れる強さを実感出来るので幸福である。

不幸はないものとして、見ないようにしている人は、「許さない」を連呼する。「許さない」気迫は恐ろしいもので、顔から笑顔が消えるし、真面目さそのものとなり、歪んだことや、間違っても正そうとしない人や、規律を乱すような真似はしないので、いつも緊迫感が漂い、警察官のように警戒して私生活を送っているので疲れやすくもあるが、それが充実した証しなので、疲れのない毎日は幸せとは感じられないので、「許さない」気迫と、「疲れる毎日」が揃うと幸せの中に浸れるのだ。

不幸は見ないものと目を背け続ける人は、「放っといて」を口にする。何かあれば「放っとけ」と思い、人の言葉や、過干渉な姿を見る度に「放ってあげれば良いのに」と、思いやりある自分の眼差しの中に幸せを感じ、だからといって干渉することも、言葉も態度も表わさず空気のような存在となって、ただ過ぎ去る毎日を眺めていることが「日常の幸せ」と信じ込んで過ごしている。自ら行動を起すときは、窮地の時だけで、病む得ない事態に陥る時にしか腰を上げたりはしない。余裕がある限り、自発性は出さず、周りに任せて大船に乗って過ごしている。ただ、「イライラ」や「ムカムカ」も襲ってくるけれど、これもいつもの調子で「放っといて」と、それら不快感も撥ね除けるので、よく太る傾向が見られる。これは幸せ太りと呼ばれるものだから、そっとして温かな眼差しで「幸せなのね」と祈っておくと、「放っといて」とそれもまた撥ね除ける頑固ものなので、マイワールドを頑なに固守できる精神力の高さに幸せを見出しているので、そっとしておこう。

不幸は悪いものと位置づけて、わからないものだとして笑えないものから、笑えるものに正さなければならないと感じている人は「笑おうよ」と念じ続ける癖が見受けられる。悲しい顔や、寂しい顔を見たくなく、それを見せられてしまう自分を悪者扱いされているかのように感じてしまう為、「笑おうよ」呪文を唱え続けなければ、たちまち自分が悪者に染まって闇に墜ちて悪魔になってしまう恐怖を感じているのだ。この闇に墜ちてしまいそうな恐怖を「笑う」ことで、自分はまだ光の中に居る。光を失っていない。光を見つめ続けられる希望を手にしていると、力強く夢を握りしめている状態に幸せを実感出来ている為、正義感に燃えている。自分の身の回りに不調和が訪れたとしても、それは笑顔に戻せる自分の正義感を振りかざせる見せ場なので、その瞬間こそ幸せを満喫していられる。つまり、大切な人を泣かせる奴を見つけた時に喜びを見出しているのだ。そして泣かしている奴を退け、泣いた顔から笑顔を取り戻せた時、至高の喜びの境地に舞い上がれる。目は鋭く、無表情であるが、誰よりも平和を愛し、自分は笑わないが、笑いの中に居たがる人に言ってはならない一言は「笑おうよ」である。その時、その言葉を放っている相手は間違いなく笑顔ではないからだ。これは秘密だからな。

不幸は別れを告げるべきと考えている者にとっては、「もっと良いことがあるよ」のおまじないが好きだ。物事を好意的な解釈し、自分本位な解釈を一方的に押しつけて、受け取らないと「幸せになれないぞ」と脅すことも忘れない用意周到さがある。この者は知らず知らずのうちにマインドコントールを仕掛け、「良いことがあるに違いない症候群」を生み出し、不幸とはおさらば出来た姿を見せ続けることで、幸せの中心に自分が居るという気持ちを胸に抱いていることが何より大事なのだ。どんなに不幸に見舞われても、それをものともしない鉄壁の強さを誇る。現実を直視せず、「もっと良いこと」を見ているので、その瞳の輝きは失わない。それに励まされる人たちも多い。そして何も出来ない自分の姿も直視していない為に、状況打破することは出来ずに、いつも救われ、助けられ、導かれる側に立つことで、周りに感謝を贈りまくり、ありがとうを連呼し、出来ない自分にダメ出しし続けても、明日の理想に向かって何もしない人の心は花畑なのである。誰も踏み込めない。

不幸は我がままだからいけないこととし、一切のわがままを封じ込め、我がままを嫌い、我が儘を叩き、わがままはわからないものとして、思考を停止し続ける人が居る。このような人は「良くないことしか考えない」ことで、現実は何も問題がないけれど、脳内の妄想だけで恐怖のどん底に墜ちることが出来るので、人からは幸せと見せることが出来、自分だけは不幸の渦の中にひたすら落ち続けていくことをして、周りに安心を提供している豊かな人である。つまり、自分は超絶な悩みや苦しみを口に出したり、態度に表わす為、周りは自分以上に手を焼く人が居ることを知ることが出来る為、自分の悩みよりも、その人の悩みをなんとかしてあげようとするため、周りに幸せを与え、自分に不幸を集中させることで周りを安心させよう作戦に出ている健気な人なのである。任務遂行中の不幸のどん底に落ち続けている者を見かけたら、「大丈夫だよ」と言い続けてあげてください。本人は「大丈夫じゃない」と思いながらも「ありがとう」と言える自分で、周りに幸せを与えている錯覚に酔いしれることが出来るので、お芝居に付き合う感覚で付き合えば、周りの人も気に病ますに済むよね。共に楽しんであげよう。

 

こんな風に不幸をものともしない強者たちで、世界は支えられているから、気にもせずに自分の人生を楽しんだらいい。自分が上記の該当者であっても、その不幸があるから幸せでいられるメリットを享受出来ているのだから、文句言わないことである。不平不満は美容にも、イケメンにも体敵であるからな。

どんなところでも幸せを感じるには、何かしらの差異が欠かせない。
その差をどことどこを結びつければいいか知らないから、不幸のままでいられるのだ。もし、その差異を無くせる妙法に出会ってしまったら、立ち所に不幸な感覚は失われてしまう。そんな幸せだけの心境に至るような真似はしない方が、体の為である。

適度な不幸というストレスが身体にのし掛かっている方が、人は健全で居られる。

もっとも、そんなストレスは地球の重力で充分満たされるという見解もあるが、それは等しくみんなにのし掛かっている不幸なので、そんなのは不幸とは呼ばないと、誰も相手にして貰えない解釈でもある。また、この人間という肉体という制限も十分なストレスと扱えるが、それをストレスと認識することも出来ない。この二つのストレスという不幸があれば、後はいかようにも至福感に包まれ、豊かさを満喫する人生を歩めるというのだが、まぶたを閉じると、この様な人たちの相念が届けられて、「何とかしてくれ」と叫んでいるようだから、こんなことを書いてみた。

何とかしたいなら、何とかしたらいい。

やり方や方法くらい、いくらでも伝える。

自分の事じゃないと、嫌がり、許さず、放っといてと離れ、笑おうよと嘯(うそぶ)き、もっと良いことがあるからと目をつぶり続け、良くないことしか考えないでいる者に、何を伝えようとしても伝わらないものだ。

ここにおいでなさい。

教えてあげるから。

 

 

目を閉じれば思い出す。

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