あなたの幸せを願って

人が狂気に墜ちる時、誰かの幸せが満たされる。

時の回廊の扉を開くには、用心がいる。
うっかり、空けてはならない時の狭間に墜ちている朽ちた扉を目にしてしまうと、開けずにいられない衝動に駆られるからだ。

やめた方がいい。その扉だけは開けないことだ。

 

叔父の家の掃除に借り出された僕は、書斎の蔵書の多さに圧倒されていた。
一月前に死んだ叔父の遺品整理やら、この屋敷という名に相応しい豪邸をどうするかで、親同士が話し合っている中、お呼びがかかった。

浪人している僕は、断れる立場でもなく、言い渡されるまま、順に部屋の掃除を一人黙々とこなしていた。
こう見えて、掃除には定評がある。
整理することばかりに長けても、大学に入れる知識が備わる訳ではない。
どうにも、勉強というもののコツがあるらしいのだが、それが未だもって身につけられないでいるから、こうしている。どの家庭教師も、塾とも反りが合わないらしく、怒られるのを承知でつけてもらった家庭教師を辞めていただき、塾からも足を遠ざけては、親から大目玉を食らうことを平気にしてしまっていた。

それでも親にとってみれば、可愛いらしく、難癖つけている僕の言い分を聞き入れ、自分のペースで勉強させてくれるのはありがたかった。

にしても、最初に見た以上に、書斎の両脇に天上までビッシリ整理されて、納められている本を見ているだけで気持ちが穏やかになっていくのを感じられる。たまらなく好みとなる部屋だ。似つかわしくない僕のような人格者が、この書斎の主にでもなれたら、などと叔父の椅子に座っては、両側にそびえ立つ本棚を見てうっとりしてしまう。叔父とはほとんど交流がないので人物像さえ想像がつかないが、いい人だったに違いない。

親たちには相性が悪くても、僕にはきっとぴったりに違いないと、この蔵書のビルの存在を生前に知っていれば、通い詰めていたのではないか? とさえ思うほど、僕も本好きの一人であった。

くるくるっと、座り心地のいい椅子を乗りながら周り、立ち上がる。
この部屋の掃除は、ほんどない。綺麗なものだ。次の部屋に取り掛かる前に、うーんっととどんな本があるかじっくり見てみようと、丹念に見始めてしまった。

「言いつけを守りなさい」

そんなタイトルの本が目に留まった。
妙に気になった。

著書は、「ウィン・ダー・アンカーター」とある。イギリス人が書いたものを翻訳したものだ。翻訳者が「保田次郎」と、叔父の名前が記されていた。叔父は翻訳の仕事をしていたと、この時知る。

隣にある本も、その隣も、叔父の翻訳の本が並んでいた。
そしてセットとなる原本が上の棚に並べてあった。

その原本も手にしてみると、英文で書かれた本文を読み始めてしまった。

 

一時間は軽く過ぎただろうか。
英文など、読み解けないと思い込んでいたが、自分の学んだ程度でも、どうにか読み進めることが出来た。面白い。この作中に出て来る母親が強烈に印象づけられていく。

 

* * *

「起きなさい、アーサー」

その言葉で、跳ね起きる癖っ気の強い、どこか憎めない、それでいて利発そうな子がシーツに足を取られながらも起立をしてベッドの脇に立ち上がる。
扉が勢いよく開かれ、彼の母、ウィンダリアンが入ってくる。

「起される前に、起きて食卓についていなさい」

起立をして、怒られまいとするその姿勢に、母は険しい表情をほころばせ、次は呼ばれたら部屋から出て来るようにと、念を押して部屋から出て行った。

アーサーは、立ち所に着替えて、キッチンへと向かった。

* * *

 

こんな具合に、ウィンダリアンのアーサーへの養育の様が描かれているのだが、これが恐怖心と褒美の笑顔と合わさって、アーサーへの気の毒さと、ギリギリで許しを得ていく様子が惹きつける魅力となっていた。

けれども、時期にそれは恐怖の方が勝るようになり、母親の褒美の笑顔は消え失せ、言う通りに出来ないアーサーへの執拗ないじめに発展していくのであった。僕は、思いやり溢れるウィンダリアンの母性が中盤から描かれなくなっていることに気づかぬまま、苛立ちと不安と焦りの中に立たされていた。

言いつけを守ることが出来ないアーサーの心理的描写が、僕の勉強しようとするのに頭に入っていかないもどかしさとリンクする。物事に一生懸命打ち込んでいても、どこか上の空になる様や、今仕上げないと後々散々な目に遭うことが体験上学習しているにもかかわらず、放置するようなことを無意識にしてしまうことなど、アーサーと自分が重なって見えて仕方がなかった。

3つ大事なことを伝えられると、その1つを忘れてしまうなどがある。すり替わってしまうものとかだ。
紙に書いたとしても、その紙そのものを見るのを忘れてしまうなどが、アーサーの身にも起きると、同情より共感が勝り、親近感に変わっていくのは早かった。そして、ウィンダリアンの立ち振る舞いが、親や周りの人たちのそれと類似していることに気づいて行く。

「何度言ったらいいのかしら?」
「あなたがわかるまで、続けるからね」
「酷いのはどっち?」
「お金は誰が稼いでいるの?」
「誰が決めたことなの?」

どの言葉も胸に突き刺さる。
ウィンダリアンの指摘はもっともだ。誰一人アーサーの味方などしないだろう。
それでも僕はアーサーの味方でいたし、ウィンダリアンの母性もよくわかるものだったから嫌いにはなれなかった。ただ、違うんだ! と心の中で叫びながら読み進めていった。

 

気づけば、この本に出会ってから二日が過ぎていた。
連日、叔父の部屋にこもっては、読みふけっていた。

アーサーは、8歳から16歳へと成長していた。
純粋なままの彼は、執拗な母の躾の成果もなく、人との関わりが困難な状態に陥っていた。
心は純粋でも、見た目は陰湿になっており、覇気がなく、声も小さく、いつも怯えているような姿になっていた。クラスメイトからもからかわれる毎日であり、今日が卒業式という学び場の最後の日であった。

アーサーは学校に行くことはなかった。
街の教会に足を運んでいた。
学校が終われば、いよいよ勤め人として働きに出なければならない。
彼に就職の当てはなかった。富裕層の彼は、働く必要もないといえばそうでもあるが、彼は家を出たかったが、成績も交友関係も何もかも出来ないでいたのだ。母親であるウィンダリアンの言う通りにだけして生きてきた彼は、母親の言いつけ以外のことが何も出来ないままでいたのだ。

それが学校から母親に伝えられると、執拗な訓練がはじまり、出来るように変えられてしまう。出来るように変れるのだから、先生もクラスメイトも見直しはするが、また次の出来ないことにぶち当たり、一歩も動けなくなるのだ。母親が関わればうまく行くが、関わらなければ何一つ習得出来ないのだ。

この理屈は、僕は痛いほどよくわかった。
作中には書いてない心理描写だが、きっとアーサーは、母親だけを喜ばせたいに違いない。
僕も親の言いつけは、つい守ってしまうのだ。断れない。
塾も家庭教師も薦めるのは親だ。特に母親だ。

言われたことしか出来なくなる。
けれども、自分の心と合わないものだから、長続きしない。
どんなに確かめられても、あなたの気持ちが大事と促されても、親の気持ちを優先していることだけは打ち明けられない。そして親もまた、僕の気持ちを優先してくれているに違いない。
ウィンダリアンとアーサーのすれ違いがわかるだけに痛々しい気持ちが流れてくる。
もしかしたら、違う展開かも知れないと、淡い期待を持ちながら、アーサーに明るい日が訪れることを期待して読み進めてしまう。

 

*  *  *

教会の牧師から、ウィンダリアンに連絡が入り、母親が教会へと駆け込んでくる。
立ち尽くすアーサーに、ウィンダリアンは手を挙げた。

バチン

と、教会に頬をぶたれる音が響く。

叩かれた頬に手を当てるアーサー。

学校での日々や、幼い頃から今日まで母親がしてくれたことが走馬燈のようにアーサーの脳裏を駆け巡っていく。そして5歳の時に死んだ父親の言葉が蘇る。

「母さんの言うことを聴くように」

アーサーの目から涙がこぼれたかのように見えたが、形相が変貌していく。
髪の毛が逆立ち、うなり声を上げはじめる。
咆吼(ほうこう)とも呼べる雄叫びを上げるアーサー。

とても純粋で大人しいアーサーの姿はそこになかった。
牧師が言い放つ、「悪魔だ」と。

目つきといい、雰囲気といい、もはやアーサーのそれではなかった。
見る影もない。傍目から見て、一目でアーサーだと気づけるものはいないだろう。
それ程までに形相と雰囲気がまるで違うのだ。

それを見ても怯まないのが母、ウィンダリアンであった。

冷ややかな眼差しを向けて、「悪魔よ、退きなさい」と言い放った。
母、ウィンダリアンは信心深いキリスト信者であり、悪魔を前にしても怯むことはなかった。

アーサーの理性が残っているのか、悪魔憑きになっても、アーサーは暴走することはなかった。
ただ、うなり声を上げ続けるばかりであった。

 

*  *  *

 

牧師に羽交い締めとされ、手脚を縛られ、奥の部屋の祈りの場へと連れて行かれた。
悪魔祓いをする為だ。

この地方は、昔から悪魔が人の心の隙間に巣くうとされ、時折、人の弱みに付け入り、人を操るというのだ。
なぜ悪魔が人の心に入り込むかは描かれてはいない。

 

ただ、ウィンダリアンが、祈りの場で縛り上げられているアーサーの口に大量の精油を注ぎ込んで行くのが淡々と描写されていくのは、耐え難い苦痛をもって読んでいた。これが愛を注ぐ親のすることか? と。疑念が膨らんだ。

後は、精油を大量に飲まされてパンパンに膨れ上がったアーサーの腹部と共に、必死に抵抗を続ける悪魔と、ウィンダリアンの言葉の応酬であるが、最後には悪魔が「再び、お前は愛する者へ同じことをするであろう」と言い残して、アーサーの命と共に消えるのであった。

取り戻せなかったウィンダリアンも、悲しみに打ちひしがれていく。
持っていたものが全て崩れ去るかのように、積み上げてきた大切なものをこの手で閉ざしてしまった現実だけが残る結果となった。

物語は、気丈にもこの教訓を胸に、優しい心の持ち主に悪魔は忍び込むことを切々と人々に訴える講師となり、教会を渡り歩くウィンダリアンの姿が描かれている。

親の言う通りに子供は育つ。
言う通りにした結果、子供は壊れていく。

誰の心の中にも巣くう悪魔がいる。

「言うことを聴きなさい」

本文は、その一言で締めくくられていた。

 

「何、油売っているの」

僕の心に恐怖が降り注がれた。僕の母が書斎の扉を開けて、怪訝そうな表情をこちらに向けていた。
凍てつく僕の心がわかる。
きゅーっと心臓を掴まれていく感覚が走る。

「まだ、隣の部屋掃除終わっていないでしょう?」

正論を吐かれると弱い。
目の前に楽しい事があると、それに囚われると離れられなくなる。それで色んなミスを重ねて来ても治ることがない。また怒られる。

「掃除もただでお願いした訳じゃないでしょう? あなたの受験もあるからって、一つの生き抜きにってことで寄こさせたのに、本の虫になってどうするの」

あー、ごもっともです、お母さん。それ以上は言わないで。
自分でも何をしているかよくわからないのです。
追い詰めないでください。

「本当に困った子ね〜。高田の姉さんが、あなたのこと大丈夫? って気にしていたわよ。周りのこと見えていないのじゃないかって」

あー、そうですねー、見えてませんね。失礼しました。申し訳ないです。これだから親戚とか人と関わるの怖くて嫌なんだよな。自分の定義に当てはまらないものを、心配という言葉で気遣っている振りをして、責めてくる。改めろと、直せと、普通になれと言っている。

自分の中で何かが壊れていくのがわかっていた。

「母さん、何も言い返せなかったわよ。最近のあなた変じゃない? ねぇ、言うこと聴いているの?」

何かが壊れていくのがわかった。

許されない真似をしようとしている自分がいるのがわかる。

ああ、そうか。アーサーは、この闇の心に触れて解放したんだとわかった。自分の心に隠していたわだかまりをそのまま表に出して見ようと、そんな気になってしまった。顔つきが変わっていくのがわかるし、声も低く唸るようになる。

「それで?」

食ってかかるように言い放っていく。

「それでって、母さん、顔向けできないって話をしているのよ」

それが引き金となる。
自分の息子に対して、不快感を感じているのを、親戚の姉の言葉を借りないと言えないその心根が気に入らない。沸々と何かが込み上げてくる。

その何かに触れると、「人の気持ちがわかるようになりなさい」という言葉が浮かび上がって来た。
幼い頃に、母が繰り返し僕に投げかけていた言葉だ。
その呪いとも呼べる言葉の応酬が、人が持つ様々な気持ちの一つひとつに蓋をして覆い隠して、母の望む人の気持ちを探り当てようとしていた。だから、最初だけは素直に返事が出来る僕になった。時が過ぎると共に、その嘘ははがされていき、自分で言って決めたにも関わらず長続きしない現実となって我が身に還って来ていた。

大事にしていたのは、その時だけ相手を立てるということだった。
他人との付き合いは、表面的でいい。見せかけだけを大事にして整えれば、嫌われることがないから。
嫌い合わないように努めることが、人の気持ちを汲み取るものだとして教わった。
その意味がまるで理解出来なかったが、今、あの本に触れて、この気持ちに染まり、わかったことがある。

僕は、この人を心底憎んでいる。

実の母親に対して、憎しみを抱くことなんてあるのだろうか? 感じながら、自分の気持ちに疑う自分もいるが、今はこの心に触れられた自分を喜んでいる。これは開いてはならない心の扉だった。
僕が悪い人になっていく。
いけないことを考えつくような人になってしまう。

どうにでもなれって気持ちになっていく。
闇に心を染め上げてしまえば、それ以上闇に墜ちなくても済む。

この程度のことだ。

平気で嘘がつける。
平気で人の裏をかける。
平気で相手に尽くした振りが出来る。
平気で自分の考えを誰かの考えだとすり替えて話せる。

これでいいんだ。悪魔を迎え入れてしまえば、誰も悪魔だとバレたりはしない。
悪魔を拒絶するから、表に出してしまう。乗っ取られていることに気づかれ、祓われてしまう。もしくは作中のように共倒れだ。そんな浅はかな真似などさせない。この体のもの主は賢い。丁度良い。

 

「ごめんなさい、直ぐ掃除します」

起立をして、深々と頭を下げる。
これは他人行儀だ。これでいい。
実の親に素を見せる必要などない。
大事なのは、人の気持ちを良くしてあげることなんだ。
ウィンダリアンは、きっとそのことをアーサーに教えようとしていたんだ。
アーサーは純粋過ぎたから、姑息な真似をして形だけを整えることを徹しようとしなかった。
心から一つの心に染め上げようとしたから、無理が来たんだ。

僕はうまくやる。
悪魔が巣くおうが、礼節を踏まえ、人を立て、人を喜ばせて、自分の欲するものを手にしていくことが出来るなら、それが一番いいに決まっている。人の心の裏側などは、相手に裏があると感じさせることがなければうまく行く。建前で、心開かないように見えていても、相手に不快さが届かなければ仲良くしてくれるものだ。

整理された関わりで、文句を言うのもは少ない。
優しくしていけば良い。

何か言いたそうな、母を横目に、隣に部屋に入り掃除の続きをしていく。
この時から僕の何かが変わった。
時の狭間に落としてきた心を拾い上げられたのか、それとも落としてしまったのかはわからない。

開けてはならない扉の先にあった悪魔の心は、誰とでも仲良く出来る魔法の心をもたらしてくれた。
もう、僕は自分の心に従わない。
見せかけをもっとも大事にして、言葉を美しく整え、誰が見ても非の打ち所がないもので、人と関わり、優しくしていくことが出来る。

優しい人になるってきっとこんな人の事を言うのかも知れない。

僕の中の何かが笑った気がした。

 

 

end

 

 

わかり合えるその時まで、お元気で。

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