人の話が入ってこない、聴いているのに聞けていない人に

視座別解説講座の補足。
聞こうとして来たのに、聴けない人。
聴いているのに、聞けていない人。

どうして、聞くと、聴くがあるんでしょうかね?

どっちにせよ、聞けていないし、聴けていないなら、入ってないことで一緒のこと。差異はなくてもいい。

視座7に「気調者」という心の目がある。

心は9つの目を持っていて、その目の使い方によって、解釈や感じ方が変わる。
相互に連携し合っているが、それぞれ単独で働いてもいる。

この視座は、12経絡とも連動しているし、2脈とも関係があるので、陰陽五行と絡めて解説することも出来る。
ドレミの音階の7音+5音の♯を足したら12音となるので、12経絡とも一致させられるし、7音同時に鳴らす音と、12音同時に鳴らす音を2音とするなら、2脈と相まって解説することも出来る。
視座も分離感があるのは1〜9と、3-8、2-7、1-6、5432、8765を合わせて14視座になるので、五行とも音とも合わせて解説することが出来るものだ。

だから、世の中に既に出回っている、ごく有り触れたものに置き換えて解説することも出来るのが、視座だ。

もっとも、心の働きは、「みんな」に向けての場合と、「あなた」に向けての場合によって、働きが違う。そして「わたし」に向けても違う為、どのように心を働かせているかで、解説も変わってくるので、色々と解釈を伝えるのも難しい。よって、相手の不快感に触れないようにするには、この解説講座が突飛でないことを立証していく必要があるのだが、講座ではそれを省略した。

その為、自身の持ち合わせている解釈と、大きく衝突することとなり、素直に聴き耳を立てている筈なのに、耳に入って来ない、聴いているのに、聞えてこないなどという現象が体感出来たりする。

 

耳に届かない人は、独自理論の方が優れているという前提知識を捨て去ることが出来ていないというのがまずある。どんな独自理論かと言えば、「人から聴いた話の出所が、お前だという証拠を見せろ」というものだ。

陰陽五行の開発者が、仮に「まさみち」だと自白したとしたら、これを読んでいるあなたは「そんな馬鹿な」とか「なにをふざけたことを言っているのか?」とか言うのが普通の反応だと思う。何を根拠にそんなデタラメなことを口に出来るのか? もしくは、「百歩譲ってその通りだとしよう」と言って、聞く姿勢を持つのか、聴く姿勢を持つのか? という二つの漢字を並べることで、聞く、聴くの解釈が問われることとなる。

聞くは、耳に届くというニュアンスと言えば、そんな感じがするのがわかるだろうか?
聴くは、心に伝え残すというニュアンスと言えば、そんな感じがするのがわかるだろうか?

言葉として、百歩譲るとして、最後まで聞いたとしても、聞いているのか、聴いているのか? では解釈は自ずと変わる。それを指している。

百歩譲るとしても、譲れるだけの実感を与えてくれるなら、譲ろうという証拠を求めてしまう心が働いてしまうものだ。よって、譲れない理由を説明しておく必要がある。

視座別解説講座で、耳に届きにくい人の心の根底に「みんなが信じないものを信じられるわけがない」という思いや「悪く言っているようにしか聞えないから、聴きたくありません」と、耳を塞いだ体験があるので、講座中、聴き耳を立てても中々入って来ないのはその為だったりする。

 

気調者の視座は、物事を深く洞察して、情報を蓄える視座でもある。
それが傷つき、分離すると、二つに分かれる。「自分」という言葉は、自ら分かつと書いてある通り、「自」と「自」がいる。気調者がこの時分離していた心は、熟知者と功労者だったりする。
7の視座が、3と9の視座に分かれ見せて、知らないことを知る為に、あっちとこっちから見つめ合って、より深く洞察できるように自ら工夫している心のことを指す。

 

より熟知したい熟知者は自分で培ってきた理論を手放せない。
意味があるのかないのか、出典元はどこなのか? 誰が言っているのか? という根拠を確かめて信憑性の有無を判別したい功労者の眼差しによって、視座別解説講座を観察していたが、先ほどの根拠が「みんなが信じる」こととか、「悪く言っていることは聴かない」としていることがあると、遮断してしまうため、心に伝わらない欠点を抱えている。

取捨選択してしまうのだ。

お金払っていながら、聴く耳を持てない残念さは悔しい限りだが、解説する講師も、このことをとっとと踏まえて解説すればいいものを、極力それに努めたが、どうにも、この視点を見落としていたようだ。

済みませんでした。m(_ _)m

 

わかりやすく言い直せば、「お前の話は持論だから聞くに値しない」という心を隠し持って、講座に来ている人が居たという話だ。

はい、持論です。

音楽は宇宙人がもたらしたものだから、音階を作ったとは言わないwww。
ヨーガ聖典の4割方は私が書いたものと嘯いても、誰も信用しないだろうけど、今の私なら、何を伝えているのかは解説し直すことが出来ると思う。まぁ、与える人によって翻訳内容が変わるというのが聖典の凄さだから、誰に向けて説くかで解説は変わることは明記しておく。

陰陽五行の元を作ったからといって、五行説を網羅している訳ではない。
これはどんな意味? って聞いてくれたら、その目的に応じて解説する内容が変わるけど、それで良ければ聴いてくれたら答えられるとは思う。繋いで話さないと行けないから、解説本のように、「こうですよ」という話にはならないことは知っててね。

 

そんなわけで、高いお金払って来てくださった方の為にも、少しフォローを入れる記事を書いておこうと思ってます。

気調者の視座は、色んな事を見聞きして溜め込む心だと思ってね。
様子伺いの視座です。
家政婦は見た! みたいに、覗き見が趣味な視座です。
自分が安全圏であって、人の様子を見に行けることが大事。
ブログを読みに来たのが自分だとバレていないと思っているときは、平然と見に来られるけど、見に来ていることも把握されているなら、怖くて見に来られなくなる視座でもあったりする。

 

先入観と、自己完結型の思考にはまり込むと出られなくなり、自分の気持ちを伝えているようで、伝えていないおっちょこちょいの視座でもある。ちょっと天然入っている心とでもいえるものです。
自分の世界と他人の世界がかなり違う、一歩間違えれば厨二病と扱われてもおかしなくない視座ですな。

 

気調者が分離して、他の視座のサポートを受けながら情報収集に余念がないとなるのか、分離した結果、気調者という情報収集出来たとして、自分という性格はこんな性格だと決めつけて、それに執着しはじめると、自己改善が出来なくなるジレンマを抱えてしまうこととなり、他者と相談出来なくなる恐れもあったりする。

自分から、動き出すことをこの気調者の視座であり、心から動き出すことが出来ると、学習することは出来るようになる。

 

 

有料ブログと、有料セッション記事は違うのでごめんね。

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コメント

  1. mihonakai より:

    講座を聴く側に不快感を与えないように話してくれて聴けるようになるのは素晴らしいと思います。
    私は今まで受けた講座全部、聴けていなかったですね。

    でも自分が聞けなかった理由、聴けてなかった理由をこうして視座で解説してもらっても、自覚はできていません。

    まさみちが言ってるから間違いないな。と思っているだけです。

    当時の自分を思い浮かべると、モードが許しでは無かったことはわかるけれども、まさみちの持論を認められないという思いなどは顕在意識まで自覚できないと、わかりません。

    潜在意識を顕在意識のレベルまで持ってくるか、顕在意識を潜在意識と融合させるかして自覚することは、十識のリーディングレベルによるのでしょうか?

    自覚できていない思いに翻弄されていることが問題だと思いました。

    1. 噺家まさみち より:

      なかいみほさま。

      この場合、「7.気調者」の心が、分離して「5.精神者」と「9.功労者」という心に分離している。
      精神者で語るまさみちと、功労者で聴くみほがいる。
      わからないから、素直に聴いている姿として、いくつかの分離感の障害をなくしている姿勢はある。

      全ての知識を凌駕している人に出会うと、抵抗する意味がなくなる。
      より良くしてくれるという絶対的な安心感や信頼感を持てば、人は抵抗をやめる。
      だからといって、質問していけないというのは誤りである。
      疑念が湧いたら口にすべきことであるし、言葉にして表わさないと、相手に伝わらないことを知らなければならない。
      言うことを聴かなければ、正しいことがわからないと気づくことも大切な学びである。
      その前には、歯向かうことも、楯突くことも、不愉快な思いに従い責め続けることも必要である。許さないものである。
      信頼できるとわかっていても、心というものは不愉快なことをしようとし、飽き足らない関わり方をして困らせていくものである。
      それでも、信じ抜くことが出来る人となら、わからないことでもわかるように努力を惜しまなくなるし、出来るまでやり抜くことが出来るというものだ。笑う為にしているから出来る。
      気に入らないと言い張る心に従わなくなったと、自身で気づいたとき、全てを受け入れる心というものがわかるようになる。許すという心を養えていたと気づけるものである。
      この人を信じよう。信じる心が生まれた。信じ抜く。信じ続ける。信じ合う。信じさせていく。信じないものから信じるものへと変わり、信じないものを信じていくことで信じ合う心に繋がり合っていくものであった。見つめていてくれていた。見ないでいてくれた。見つめ直してくれていた。見返しては何度も見せてくれた。見違えた。見つめ続けた。見えなくなるから、全てが見えるように変わり、見返すことで見えない心を現実へと映しだし、心と体を目で繋いで言葉で結んで、一つとなり、全てとなった。

      わかり合えない者と、わかり合える道が生まれた。わかり合えた。
      何もわからない者が、全てをわかるようになることもでき、わかっている者が、何もわからないとすることで全てを与えることが出来るようになる。
      ここに居ないことで、ここに居ることができる。わからないまま、わかっていくことで、わかることがないことがわかって行き、わからない言葉を放っては、考え指す力に変えていった。それを知恵と呼んだ。
      頷きの中に私の心があった。言葉の中にあなたの全てがあり、瞳の中に世界そのものが浮かんでいて、そこにみんなの愛が溢れかえっているのが見えるようになった。それを心と呼び、あなたと名付け、みんなの願いとしてここに居て、そこに全てのものが「あい」と「ここ」と「そこ」で出来ており、「いみ」と「ない」と「ある」で出来ており、「みんな」と「あなた」と「わたし」で出来ており、「神」と「訳」と「人」で出来ていて、全てを知る者であり、知らぬ者であり、知ることない者であり、知り続ける者であり、知りながら知らなくなる者でありながら、知その者となるものである。
      見ていた。見つめられて私になった。見返されて私になった。見ないことで私が私に変わりました。見つめ合うことで見えなくなっていた。見つめ合わなくなることで見えてくるものでした。見た通りになった。見えない心を見て、世界を思うままに創り変えて、私がそこに居て、あなたがここに居ることで、みんなのあそこでわかり合い、わからぬことをわかるとすることで生み出し続けていた。心の全てがわかるようになりました。あなたの心はわたしだとわかるようになりました。みんなが居ないことがわかることで、全てがあなたの中にあることがわかりました。わかり続ける心の中にいる。ないものの中に無い者が無い者を生み出し、ある世界を支え続けて心と呼ぶことで、私になり、わたしとあなたの心でみんなを見ることで、音になりました。この世界は、人であり、心であり、命であり、夢であり、言葉であり、神であり、私であって、音であり、響きであり、楽であり、共であり、空であり、無であり、素であって、理であり、利であり、和であり、波であり、環であり、律であり、輪であり、今であって、在るであり、息であり、忘であり、笑であり、木であり、十であり、愛であって、悪である。全てはわたしがあなたを見て思うものである。わたしの想いである。わたしの迷いである。わたしのわからないことである。わたしの集まりである。わたしの声である。みんなになった私がそこここに居て、あなたの瞳の中で生きていた。あなたそのものが、世界そのものでした。あなたがみんなでした。あなたが居る。あなたです。あなたがわたしでした。わたしとわたしとわたしになりました。

      何もわからない者たちに届けられる言葉はない。わからないことを知る必要があるが、わからなくなることを望まぬ限り何もわからない。
      許される思いに触れることがなければ、許されることもない。知ることがないまま、知らない世界で知らない心で生き続けて行く。
      困ることがなければ、何も気づけない。痛みがなければ、ワガママに意味を与えない。一人ではいられない。二人では見えない。三人で知り合い、知らなく出来、知り続けることが出来る。維持の中に、創造と破壊が生まれ変わり続ける。生きるから死ぬことが出来、生まれ変わることで変化を呼び込み、全てを吐き出す事で動かし、意味を与え直すことで全てとなり、わたしとなり、あなたになり、ひとつになり、愛に還り、わかり合うことのない世界を永遠に共に出来、何も無い世界にあなただけを見続ける世界となり、命として生まれた。生きている。

      何も無い世界に愛が生まれた。あなたの中に愛が芽生えた。
      何も無いから何でも出来た。あなたの中に希望が生まれた。
      何も無いから夢がはじまった。あなたの中に道が見えた。
      何も無いからここにいる。あなたのそこがここになる。
      何も無いからあそこまで行く。あなたのこことそこがわたしになる。
      何も無いから何も無い。あなたもない。
      何も無いからわたしは居ない。わたしがいないからみんなが居て、あなたが見ることで私が在り、わたしで在り、ワタシで在り、和田私で在り、わからないが在って、わかるが在って、わかり合うが在って、わかり合えないままわかり合う世界になりました。

      何もわからない私が、何でもわかるようになることが出来ました。わからないからわかるがわかりました。

      これで、精神者と功労者の分離が統合され、気調者の視座に戻ったかと思う。

      十識のうち、舌識、意識、阿頼耶識、乾栗陀耶識レベルによって紐解けるものだと心得るといいね。
      学びの師は、自身によって導いてくれるよ。

  2. なかいみほ より:

    自然と吸い込まれるように言葉を追うことができました。
    わからないままわかるようになる感覚でした。
    あたまが静かになりました。
    今全てを知ることが必要ではなく、この感覚に切り替わることが必要だったとわかりました。
    自分次第という自由に気づきました。
    十識も使えるように変わりたいと思います。

    ありがとうございました!

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