視座別講座.01「誰も教えてくれない」無料公開中

心に幾つもの種類があるなんて、誰が知っているだろう?

性格とかではない。

心というのは、「自分」という漢字があるように、「自ら分かつもの」として、「自」「自」があって、「自分」と称している。

 

私の中にたくさんの自分がいる。そっちの自分と、こっちの自分と言ったように、自分同士で意見が分かれることもあれば、やろうやろうと自分の気持ちが一つにまとまっている時などは調子良く物事をはじめていける。

では、こっちの自分とか、そっちの自分とか、自分の中にたくさんの自分がいることを観察出来ている人は、物事を多角的に見ることが出来ている人だ。

 

視座別講座というものは、そんな多角的に物事を観察出来る目を養っていくためのものだ。
この構造を知っていることで、勉強など、自らお金を払っているのに覚えられないとか、先生や講師から姿勢がなっていない的なことを言われて落ち込むこととなったり、無意味な励ましや、奮い立たせや、引き出そうと一生懸命に関わってくれているのに応えられないことなどが解明されると思ってくれたらいい。

自分のやる気や、姿勢とは裏腹に、学べない、取り入れられない、聴けない、わかっていけない、興味が失せていくなどの現象が説明できる。

誰だって、投資したものは回収したいもの。

支払うだけの価値を見出して、それ相応のものなら対価は惜しまないものだ。

 

けれども、人は経験していくことで学んでいき、固執していく。
ミスを繰り返せば、二度と同じ轍を踏まぬように頑なになる。
この人こそ! と思えば思うほど従順な姿勢も実践して臨んでみるものの、評判や周りの絶賛とは裏腹に自分だけが取り残され感満載で講義が終わるなんてことだってある。

 

講師には絶大な評価があり、周りもいいと言う。自分だけが不快感と、受け取れない感覚の焦りが残る。
そのメカニズムは何か? というものだ。
周りが楽しんでいるのに、自分だけが楽しめない時はないか?
来る気がなかったけど、来てみたら楽しかった。というのはいい。
来たくて来たけど、来なければ良かったというのは残念すぎて再起出来なくなっていく。
諦めるな! という言葉に励まされて突き進んで来たけれど、やっぱり自分には向かない、わかない、合わない、やる気ないんだと諦めてしまいたくなる。

そして疲れ果てて、何も出来なくなる。

 

一体何が心の中で起きているのか?

自分と自分が、何をしているのか?

単純な心が分裂する、二つの自分で済めば良い。
これが、四つに分離している自分なんてのもあるとしたら?

 

あの自分、その自分、あそこの自分、あんな自分、みたいなものだ。

二つの自分はわかりやすい。

「嫌っている自分」「嫌われている自分」という具合に単純に二つの視座として扱える。

「皆と仲良く出来る自分は好き」「皆と仲良く出来ない自分は嫌い」なんて解釈でいい。
「皆と仲良く出来る自分を好いている自分と、好かれている自分」に分離してみられる。
「皆と仲良く出来ない自分を嫌っている自分と、嫌われている自分」に分離してみられる。

好いている方はいい。
嫌われている方は、嫌っている側も、嫌われている側もどちらも自分だからたまったものではない。
救いも助けもない。
いじめているのは他でもない自分である以上、自分で自分を責めて傷つけていることがうかがい知れる。
そんなものは早々にやめたらいい。

 

これが四つに分離している自分とは何ぞや? となる。
「やる気出している自分」
「やらせていこうとする自分」
「やってみればと傍目の自分」
「何かが邪魔して何もわからなくなる自分」
といった具合に分かれている場合、四つ目の「何かが邪魔して何もわからなくなる自分」に陥ると、質問する内容さえすっ飛んでしまうため、聴くことさえ出来なくなることがある。

四人居れば、それぞれがそれぞれの分離した自分になってしまうことがあるってなる。
Aさん:「やる気出している自分(やる気出して引っ張っていこうとしてくれる)」
Bさん:「やらせていこうとする自分(置いていかないよって、やらせようとしてわかるように促してくれる)」
Cさん:「やってみればと傍目の自分(その人がその気にならないと何言っても届かないから放って置けばいいとして、穏やかに見守ってくれている)」
自分 :「何かが邪魔して何もわからなくなる自分(周りがどれだけ優しく関わってくれても、何一つわかる感覚が来なくて固まることしか出来なくなる)」
こんな体験はないだろうか?
四番目の自分の立場になった者にしかわからない恐怖感。焦燥感。絶望感といったらないが、傍目は一生懸命だから、周りのせいには出来ない。結果的に自分を責めるしかなくなり、その分野は理解不能となって諦めていくしか道はなくなるというものだ。そうした分離感があると知っていて欲しい。

 

嫌う、嫌われているという分離している自分なら、相手と私というものとして感じることもある。

グループの場合、個人個人の場合など、分離した自分がどう相手に投影されて、自分は好いているつもりなのに、相手に嫌われているような態度が取られたり、周りは一生懸命励ましてくれているのに、何がなんだかわからないまま突き進んでしまう状況を改善出来ないまま時間だけが過ぎていくなどがある。

 

二つに分離している時、四つに分離している時と、まとめて書いてしまっているが、ここでは自分の心が二つや四つに分離して、それぞれの立ち位置が固定されやすくあり、片方だけしか体感していないため、客観的とか多角的な視野を持てない人がいるってことを説明している。

視座というものは、思いやりや、心遣いといった類いとして捉えてくれたら良い。

それが分離感として、あっちの自分、こっちの自分となるだけだ。

 

出来ている自分。
出来ていない自分。

出来ていない自分は、こういう態度、姿勢でいるべきだ。と前提があると、出来ていない誰かを見かけたとき、自分と同じ態度や姿勢を持ち合わせていないと、心が乱されるなんてことになる。

出来ていない人は、卑屈であるべきとしているかも知れない。
出来ていない人は、笑っていてはいけないとしているかも知れない。
出来ていない人は、望みを持っては行けないとしているかも知れない。
出来ていない人は、大人しく黙っていなければならないとしているかも知れない。

出来ていることに対して、何を思うのか。
出来ていないことに対して、何を思うのか。

取り組んでいる自分自身はいい。
しかし、取り組んでいるグループに集まる誰かが、出来ない姿を見せたときの立ち振る舞いが、自分の思っているものと違うと人は心乱される。それを分離感と呼んでいる。

 

一人の時はいい。
二人以上になったときに、出て来るものがある。
相手によって、いつもの自分で居られなくさせられることがある。

 

視座が変わる。

 

出来ない自分を嫌っている側は良かった。嫌った以上、嫌っているだけのことをしていればいいから。
でも、自分以上に出来る人に出会うと、出来ない自分として嫌われなければならない。それが嫌われないと困るのだ。自分は嫌っているのに、相手は嫌って来ないとかね。

出来ない人を見たとき、捨てられようとする態度に出る人や、僻み根性を表に出してきてしまう人など、相手に嫌わせようとする態度に出てしまう人が居る。自分が嫌っているからだ。

視座は、相手によってあっち行ったりこっち行ったりして、変わることがある。
それでも、大体は一定だ。心変わりなんて早々起きるものでは無い。
だから、性格とか個性とかパターン化して乗り切っていけばいい。

それが世の中の風潮だ。
取り立てて視座とか何とか新しいことを覚えさせる必要もない。

 

けれども、どうにもこうにもそういうパターンでは対応出来ない傾向も出ている。
こうした視座別講座として、モノの捉え方、見方、解釈の持ち方、多角的な目線を持つ意味を覚える価値は、まぁ、わかる。俯瞰していけるならそれに越したことはない。冷静でいられるなら、尚のこといい。
感情に呑まれるようなことをしたくはない。
感情が希薄過ぎて、面白味がなくなるのも面白くない。

大事なのは、自分のとっちらかった心の分離感を一つにまとめ合わせる第3の目を養えたらいいというものだ。

あっちの自分とこっちの自分を同時に見ることが出来る目だ。

それを第3の目とか、心の目だとか言っている。

視座とはそんな第3の目のことを言う。

ただ、そんな第3の目も開き方がわからない。

 

チャクラとしたら第6チャクラとなるのだが、そんなハイレベルな視座などを持ち合わせる前に、やっておかなければならないモノの見方、捉え方、解釈の持ち方なんてのがあるから、そんなことを覚えていって貰ったらいいとしている。

 

この講座を通して、視座というものが、見え方、捉え方、関わり方、意識の在り方などの基礎となるものだとわかってくると、自分自身を立ち直らせる切っ掛け作りが出来るように変れる。

 

世の中、方法論は幾らでもある。
でも、それで立ち直れない人の心に対してどうしたらいいか? ってのがない。

こうした文章ではどうにも届けられないものがある。
それでも、直接講義を受けたり、対面で応答出来ない人向けにわかりやすく説明出来ればと思って、書いている。

 

心の目を養ってみたい人は、読みに来て欲しい。
わからないまま、はじめて見ること。
わかっても、その先のわからなさに触れていける心であること。
第3の目という、第1の目の一方的な見方に大して、相対する第2の目の見返しがある。その両方を俯瞰して見ている第3の目は、それ以外の見方も見つけることが出来る目だ。執着しない見方を見たとき、執着とは違ったものの見方が生み出されていく。それが第3の目の恩恵でもある。この第3の目と第3の目と第3の目と第3の目を合わせた第4の目もあり、その第4の目を組み合わせた第5の目なんてのもある。それを重ね合わせていけば第8の目なんてあり、全部を見通した第9の目なんて全てを見通す目なんてのもあるが、私にもそんな目は持ち合わせていないから構造的な話でしかない。

私も視座は学び中である。
少しだけ先に気づいている部分があるに過ぎない。
それをシェアしている。
みんなの視座の解釈が深まり、多角的な視座、視点、モノの捉え方や解釈を自在に持ち合わせることが出来たら、人に優しくなれる。それが視座別講座の狙いだ。「優しい心の持ち方を学ぶ」でいい。
学んで行って欲しい。
感覚として掴んでいくこと。
人に説明して、相手がわかるようになることが1つの区切りだ。
自分がわかる事じゃない。人にわからせられるか? だ。
そこが抜け落ちている人が、自分でわかった気になってしまって、伝えられていないことが見落としていく。

 

私も同じだ。
いつも陰口のごとく、「難しい」と又聞きで聴くこととなる。
直接ではない。
色んな事情がある。
だから、ここで伝え直して行く。「わかりやすく」を目指して。
私の場合、わかりやすく教え直された体験が少ない。
「難しい」という心の声に対して、強烈に分離している自分を見つけ出している。
今後は、そんな自分を実験材料として視座別講座を解説していこうと思う。

「わかりやすかった」

と言って貰える講座にするからね。

楽しみにしていてくれ。

 

 

出来ない心のままでは、出来るようにはならない。出来ると改めてからでないと出来るようにはならない。

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コメント

  1. なかいみほ より:

    久しぶりの講座は、「視座別解説」の基本も知らないまま受けましたが、凄くわかりやすい講座でした!

    楽しくて仕方がない時間でした。

    もっともっと知りたい!
    自在に使えるようになりたい!

    そして「全てが肯定できる」と、言い聞かせではなくて、理解できるように人に話せるようになりたい!なれる!と、思いました。

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