国境を越えて、心の隔たりを越えて

視座別の解説を書いていたが、結果、難解な壁にぶち当たり、自分の心の歪み(傷)を直しているうちに、上海行きとなり、何だかんだ調整している間に、帰国してブログもほったらかし感満載で弱っております。

 

上海に着くなり、激しい腹痛と共に下して、海外入りを果たしました。
ハワイとは違う、これぞ外国に来た感を受けました。

国別にも視座の投影があって、国境を越えることで、その視座が入れ替わる為に価値感の転換とかが起きたりする。だから日本では見えないものが、海外では視座が変わって見えるなんてカラクリが隠れていたりする。

視座1、日本
視座2、アメリカ
視座3、ドイツ
視座4、イタリア
視座5、韓国(右)
視座5、北朝鮮(左)
視座6、ロシア
視座7、中国
視座8、1インド、2ブラジル
視座9、1カナダ、2トルコ、3イラン、4イスラエル

こんな具合にイメージしたら、視座の雰囲気が掴めるだろうか?

なーんてことを上海に行っている間に考えた。
中国行ってみると、イメージが本当に反転するわ。

心がさ、視座1日本、視座2アメリカ、視座6ロシア、視座7中国なんて具合に分離していて。
1の立場から、7の立場に急激に転換されたら、今まで中国に向けていた否定的な想念のフィードバックが自分に還ってくる訳で、それを受けて大変な目に合ったんですけどね。

国をまたぐと、国同士に投影した心の視座が変わって、不調になるのよ。
食べ物で当たるなんていうけど、国境越えるだけで当たることもあるって知っててね。
これ、ハワイでも受けて、死んでたけどね。
あん時は、視座2アメリカ、視座5(左)北朝鮮、視座8日本、視座9その他の国たち、ってもので日本に対して想っていたネガティブな思いが我が身に還って来てやられたんだけどね。

 

国別に視座の雰囲気を感じ取って貰うのが、興味をそそるのにいいのかな? と思って、こんな例えをしてみました。遊び感覚でもないと視座なんてわかんないよ。

グローバルな時代だし、世界中がインターネットで繋がり合い、情報が瞬く間に拡散される世の中になっている。物理的な世界がインターネットとしてどこの国にいても情報のやりとりが自在に出来る現在において、心はグローバル化を果たしているのかな? って思うのが最近思うところ。

心はソース(源)と呼ぶような大いなる叡智とか、サムシンググレードとか、呼び方は色々あると思うけど、インターネットに相当するようなものが心の世界にもあって、ソース(源)と繋がって心を通い合わせている人と、ソース(源)に繋がらずに、(つまり、インターネットに接続せず、手持ちの外部記憶媒体に依存する、HDかメモリーカードとかを通してだけ情報のやり取りする人)何をしようというのかな? ってものを感じるようになったよ。

スマホ持ちながら、インターネット契約していない携帯ってなんの役に立つの?
ってくらいに、今の時代はインターネットありきだよね。
中国凄かった。現金のやり取りなくなりつつあるって。みんなおサイフ携帯な感じ。バーコードでピピッと精算済ませているレベルが日本のそれと全然違う感なの。レンタサイクルの使い勝手の良さと便利さが半端ない。

中国(上海)の規模を見たとき、島国の発想だなって自分の心を小さいものとして扱っていることがよーくわかったよ。肌身で捉えている感覚のなんと大きなことかってね。

なので、今後は中国からだと思うけど、海外に向けて踏み出していけるようにしていかないとって決意が固まった体験でありました。

 

新しい事はじめると、使っていない心が機能しはじめようとして、体調不良とか、熱出したり、頭痛に見舞われたりと色んなことが身に降りかかる。それが前もって起きたりすることもあるから、気づいた直後に不調になれば好転反応だとわかるけど、事前に不調になって、後は順調だったりすることもあるから、事前に不調に見舞われている時に関わる人は誤解ばかりすることにもなるよね。

 

小さい頃、小学二年の時かな。
父に連れられ山登りに行くとき、想像していた山登りと違って、駅から徒歩で登山道の入り口まで歩くって説明を聞きそびれていたのか、相当不平不満を口にしながら歩いていたんだよね。父が苛立って、これはダメだ、帰ろうかって思った矢先、山を登りはじめたところに山水がしたたり落ちる場所があって沢ガニとかもいて、はしゃぎだしたのね。そこから私の調子が良くなり、父も安堵して登り出したんだと話してくれたことがあったの。
その話を数ヶ月前に聞いたから、こうしてあの当時の自分を読み取って、たまっていたガス(ストレス)を発散するまで不平不満を出し切らないと、正常化しないって知識が行き渡っていないんだなぁって思ったもの。子供は素直だから、自分の不快感を耐えられるようには出来てない。だからそのまんま吐き出して山登りできる体に調えていたってのが理屈になるんだけど、そんなの知らんよね。見ている父は、不平不満の我が子にうんざりするだろうし、こちらは、「えー、なんでこんなところ歩くの? 山登りじゃないの?(いつもは車で山道前までピタリと横付けするから、いきなり山登りになるから、駅から歩く体験そのものがないから想定と違うって文句が出ていた)」ってなってたの。
これも視座でいうと、父2、息子8という関係で、沢遊び後、息子2、父8に切り替わったの。
会社で周りに合わせて、不平不満など表に出すこともしない父の8の気持ちが、山登りのとき、私にのし掛かり、不平不満を言い続けることになったという理屈は言えるけど、そんなもの肌身で知らなければ、納得も出来ないし、単なる持論でしかないだろうって話になる。でも、こんなものはソース(源)に繋がる感覚を持ち合わせている人は、単純に「そうだね」そういうのってあるよね。って「わかる」んだよね。

まぁ、国を超えて、認識を越えて、価値感が反転する自由さがあるかどうかってのもある。

信じているものは、本当にごくごく小さなもので、もっと広い視野で見ると、全く違って見えてくることをしていかないとダメだよね。

 

まだまだ、飛行機に乗る手続きが掌握出来ていない私ですが、海外渡航が自由自在になって、どこへでも飛んでいけるようにするわ。

 

中国で活躍する日本人の方々を目の当たりにして、人の出会いとかって本当に大切だなぁって、改めて感じたよ。

 

おまけの話

よく、国境などないのに、どうして地図には国境という線が引かれているの?
って素朴な疑問があるけど、内臓に境界線などないのに、なぜ、小腸と大腸を区別するのだろうか?
なんて問いと比喩して見比べてみると、境界線はあっていいもの、国境がある豊かさでもあると思うようになった。中国はあまりの規模のでかさに想像も出来ないものだけど、中から見てみたとき、境界線があまりになさ過ぎてゴチャゴチャに見えるんだと感じたよ。それぞれの役割などが線引かれたものとなればなるほどに、うまく機能しはじめて行く社会に整って行くなら、もの凄い国になっていくのは間違いないだろうなとこれからを思って感じたよ。
境界がないけど、境界を持たせていくことで、見えるものとなる。

 

いっぱい話したいことがあり過ぎて困る。

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