視座別講座03.「心というものについて考えてみる」 無料公開中

心は顔に出る。
人相学というものがあるように、心は色んなところに現われてくる。
手相もそうだし、足の裏にだって心の全てが現われてくるほど、心は体の全てを使ってどこでも顔を覗かせて、心の状態を教えてくれている。

 

リフレクソロジーや手の平の手もみなど、フェイシャルケア、エステで背中から全身をマッサージすることで、心の凝りなどを紐解くことが出来る。

人の心とは、一体何なんだろう?
なんて、取り留めもないことを考えはじめると、尽きることのない問いかけが繰り返されて、終わりがない徒労感しか生まれない。グルグル回るだけとなる。どう考えてもいいかもわからない。瞑想(マインドフルネス)しろとか、何も考えないことだよって教わっても、モヤモヤした気持ちが拭い去られることはない。あるとしたら、何か別のことに集中的に取り組んで、他ごとを忘れて打ち込んでいる時くらいだ。

 

いつも心に振り回される。
気持ちいいときはいいが、落ち込むときはたまったものではない。

そして、いつも人間関係が問題になっていると、当たり前のごとく教わるが、一時的にそのメッソドなど方法論は役に立つが、関係が悪化したものを元に戻すのは至難の業だし、自分自身がそこまでして関係修復に努めたいと思わないし、こちらが望んでも相手が断り続けられたらどうすることも出来ない。

ただ、仲良くしたいだけなのに。

 

それはきっと、相手も同じ筈である。
けれども世の中の誰かしらは、「死んでも嫌」と、仲直りや、嫌った相手を生涯嫌い続けることを固く誓って譲ることのない心を閉ざしてしまっている人もいる。

 

そんな人と関係を修復したい人は、この視座別講座はもしかしたら役に立つかも知れない。

 

心はあなたの自身の映し鏡として、相手に投影されているものだよ。

 

そんなスピリチュアルでは当たり前のことを聞いたこともあるかも知れないように、物事には考え方、価値感というものを動かしていかなければ、新たな発想や、機転を利かすなんてことは出来ない。だから、少し、余裕を持たせて、心ってものを観察してみないか? という提案をしていく話をしていくのが、この講座の趣旨だ。

 

人の気持ちを知ることが困難だから、人と衝突するし、仲違いして喧嘩別れしたままになってしまう。
謝りたくても、謝るきっかけを得られない。どうやって謝っていいかもわからない。謝りたくもない。謝ってくれないから、仲直り出来ない。こちらから譲歩するのは常識的にも、相手の為にもならないから、絶対にしてはならないと、どれこれも自己都合の解釈でしかないとは思わないものだ。

神社に行けば、鏡が置いてある。
二礼二拍手一礼には、諸説あるだろうが、こんな考え方をしてみるのもいい。

二礼のお辞儀は、一礼して、心を改めに参りました。とお辞儀をする。二礼目は、悪い心を善い心に変える為に、知恵をお貸しください。と神さまにお辞儀をする。

二拍手の一つ目は、わかり合う為に参りました。二つ目は、絆を結び直しに悪い気持ちを祓い浄め、幸多く与えられるようにし、清らかなる心でもって皆さまと関わり直しに参りました。と神さまに心を差し出して、手拍子の音によって思いを伝えるものとする。

目の前に置かれている鏡に、心を映し出してもらい、気持ちが荒ぶれるような、「悲しみ」「怒り」「無視」「心ないこと」「冷たいこと」などを振り返り、「寂しさ」「切なさ」「焦り」「聞き入れないこと」「やましいこと」などがないか思い巡らせてみて、あるならばそれを報告し、自分の気持ちを神さまに全て差し出して聴いてもらうことをする。

そして、鏡の中におわす、神さまなら、その一連のどうすることもできなくて困り果てている気持ちを聞き入れてくれたあと、なんとおっしゃるのかと、神さまなら「きっと、こんな風に私に諭すであろう」と想像してみることをしてみたらいい。

神さまは、いい神さまですから「悪くないよ」「辛いね」「間違ってないよ」「どうすればいいか知っているよね?」「痛いよね」と慰めてもくれるだろうし、「正しいものは何かかな?」「誰を喜ばせたいの?」「逃れようとしないで見つめてみてごらん」「やらせてみら?」「自分を罰したりしないで笑えばいいよ」などと、知恵の切っ掛けを与えてくれるものでもある。

最後に一礼して、その通りに致します。と、神さまという空想に対して、やり取りした結果を持って、日々の生活を改めていけば、何かしらの変化にはなると思う。

 

この神さまなら、きっとこんな事を言うだろうな? というのが神社参拝には大事なことであったりする。

人に言われるのも好きじゃない。
自分で考えるのも、堂々巡りしてよくわからない。

ならば、神社に出かけて、神さまというものに頼って、映し鏡に現われた浄められた自分の心が、穢れた自分の心に対して、何かを言い放ってくれるなら、少しは聞く耳が出来そうな気がするというものである。

この神さまの声を聞く切っ掛けを作るのが、この視座別講座の入り口くらいに見てくれたらいい。

自分の心の中に宿る神さまを、どうやったら引っ張り出して、自分に話しかけてくれるように出来るのか?

その方法論を説いていくものとなる。

 

普通に手を合わせて、神さまに問いかけても、心の奥底に宿る神さまを表に出せるものでもなかったりするから、「神さまなんていない」なんて理屈が広まるんだ。

無神論者が多いと言われる日本人だけれど、不思議と神社参拝していたりする。
神さまとか仏さまとか、宗教はいらないとしながらも、寺社仏閣に訪れる矛盾は誰も気に留めない。
各々の神や仏の関わり方を、他人から指南されたくないだけだ。
だから、この話もひとつの価値感でしかないし、他の話と相容れないかも知れない。

それでも、何か感じるものがあれば、読み続けてみたら良い。

 

視座という心の目は、不思議と幾つも持っている。

色んな心の目があるから、色んなものの捉え方が出るし、価値感の違いも生まれる。多様性というものが人の心を豊にしてくれる。

 

神社を例えに、手を合わせる側の自分と、鏡を通して映し出された祓い浄められた自分(自分に宿る神さま)がいると考えたとき、視座は二つはあることがわかってくれたらいい。

こっちの心と、あっちの心だ。

こんな風に考えてみたら、心は幾つもの顔があり、姿があることがわかる。

人の心は、人の数だけ見え方が違うもの。

それでも、人と人との心の結びつきは一本で繋がり合っているものである。その一本の糸が捻れていたり、折れ曲がっていたり、引っ張られて伸びきっていたり、千切れてしまっていたり、結び目が出来て伝わらなかったり、繋がっていなかったり、寄れて玉になって訳がわからなくなっていたり、輪になって誰とも関わらなくなっていたり、別れて散り散りになっていたり、糸がなかったり、綺麗に織り上げられていたりしているものだったりする。

心はそんな糸のようなものでもある。

心の目である視座が見る先が、あなたの心の目である視座でもある。その見つめ合う線が、糸となる。

糸を手繰り寄せれば、あなたの心がわかる。

そんな心の視座を学び、大切なあなたの気持ちと繋がり合えば、きっと笑顔になれるから。

 

今から、少しずつ学んで行きませんか?

 

 

納得しないと人の心は動かない。

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