視座別講座04.「素直になれ、正しいことをしろ、人を思いやれ」 無料公開中

「素直になれ」
「正しいことをしろ」
「人を思いやれ」

この3つの教えは、それぞれ矛盾が含まれる。それを解説出来るだろうか?

 

素直になるなら、嘘はつけなくなる。
嘘をつけないとすると、不快感や不信感が湧き上がる時、それをそのまま口走ってしまうことが素直さだと解釈する人だっている。だから、思いつくまま、素直なままに自分の感じたままを言葉に表わすと、酷く嫌われることになる。

嘘をつくから嫌われると教わり続けた中で、素直さをモットーに生きた結果、嘘をつくよりも生きにくい生き方をしてしまい、誰とも関われない程に辛く苦しい人生になることがある。
素直に生きられない人の方がどれ程人間味があるのか。
素直に生きられないと嘆く人はいるが、素直に生きている人の末路は悲惨だとは知らない。

 

正しいことをしているなら、物事を理路整然に関わり続ける事が得策となる。
機械的に処理し、客観的に誰から見ても正しいことを言葉にすることに努める。
結果、人間味がない、人は感情の生き物だと説明されても理解が出来ない。
社会や会社においては、その論理性がもてはやされ、仕事の出来る人となるが、家庭には不向きだったりする。気持ち気持ちと共感を望まれても、それが正しいことだと解釈出来るならいいが、見る限り我が侭(まま)を許すことになるとか、横柄さに目をつぶるとか、培ってきた正しさをねじ曲げなければならなくなる。それは「正しいことをしろ」と教えてくれた恩師たちに対して裏切り行為となる。
裏切り者になりたい人などいない。
裏切り者になって、正しいことをねじ曲げて、感情論に共感していくことが良いというなら、世の中滅茶苦茶になると信じる人もいる。
正しさを大事にした結果、みんなには受け入れてもらえたが、愛したあなただけには受け入れてもらえない結末が待っていた。

 

人を思いやれと、人は言う。
誰もがそれが大事と共感してくれる。人を思いやることで、自分のことよりも相手のことを大事に扱っている。自分以上に大切にする。何より優先していく。嫌な顔ひとつしないことと決めている。
どんなに嫌でも、「嫌」とは言わない。「嫌なら嫌と言っていいのよ」と言われたところで、それも「思いやり」を向けてくれているのだから、「思いやり」でお返ししなければならないから、本当の気持ちは絶対に言わないでおく。それが思いやりだからだ。

自己犠牲でなければ、人は喜んでくれないと信じている。
わがままを言ってはいけないから、全ての不愉快な気持ちは押し殺してなかったものとする。
いい人でいなければならないし、思いやりから逸れるような真似など命に代えてもしてはならない使命がある。
思いやり続けて、自分をダメにしても、惜しまれて亡くなる道の方がいい。
自分を省みずに、誰かの為に尽くして生を全うできればそれでいい。

代え難いのは、他者からの評価。
思いやっている自分のことへのダメ出しは耐えられない。だから、頑なに否定する言葉など使えない。
行き詰まる程の苦しみの果てに、心が壊れたとしても思いやり続けるのが生きる道だと信じ続けていく。

 

この三つは共存できるが、それぞれ嘘を許さなければならないし、嫌われない保証をしてあげなければならないし、常識は壊して構わないことを特定の場合においては例外が認められることを伝えておかなければ人の心は破綻する。

視座という概念が加わることで、この三つのモノの捉え方を変えることが出来る心が養われる。

この時はこれ、その時はこれ、あの時はこれ、と学ぶことが出来るが、「素直になること」と同時に「素直になってはならない時がある」ことなど教えておかなければ、教わる側は酷く困惑する。

「正しいことをする」と同時に「間違ったことの許し方」を教えなければならない。
「思いやること」と同時に「冷たくすることが優しさである」ことを教えなければならない。

 

こうした一方的な見方だけではなく、反対側の見方を持つ事が視座を変えることに役立つと知るといい。

何気なく、見返して、あっちから見る、こっちから見るといった心の視座を置き換えているものだが、それを意識的に自由に出来る心構えが必要だ。

ついつい、一方的な見方からの多方面な解釈の持ち方をしてしまうものである。

例えるなら、Aの見方があるなら、Aから見て、A’(Bのつもり)、A”(Cのつもり)、A”’(Dのつもり)、A””(Eのつもり)といったバリエーションを考えることはしても、Aそのものから見ていたものを、Bそのもの、Cそのもの、Dそのもの、Eそのものから見るという力を養うことは学ばれていないものである。

思いやることでさえ、相手自身になることは少ない。
それが出来ているなら、視座を切り換えるという価値感は簡単に解釈出来る。

 

自分そのものからしか見えないものを、どれだけ頑張って相手の身になっても、AはBにはなれない。
けれども、Bそのもののようには見ることは可能である。
それは、理解することである。
相手の気持ちを理解し、共感することが出来れば、その人と同じ目線を持ったこととなり、同じ視座に立てたということになる。

 

心を自由にしていくには、そんなモノの見方の多様性を自由自在に動かすことが出来れば、人と人とがわかり合える道が見えてくる。大事なのはみんなと仲良くではなく、あの人と仲良くする道だ。

みんなと仲良くはもちろん大事で欠かすことの出来ないものである。
しかし、ここで提唱する問題の定義としては、みんなと仲良く出来るのに、あの人だけとは仲良く出来ない。

みんなの中に自分は溶け込んでいるが、あの人だけ溶け込めないでいる。
そんなあの人との間における問題を解決する力として、視座を切り換えるノウハウが必要だと教えるのである。

 

「頭が硬いなぁ。もっと柔軟に柔軟に!」

このような言葉を聞いたことが無いだろうか?
これを聞いて、柔軟に切り換えられるか想像してみて欲しい。

「やっている。これ以上どうしたらいいのか具体的に教えてもらっていない」
「わかった振りをして、この場をやり過ごそうかな」

このような二者を生み出す言葉かけとは、アドバイスしているつもりになっている側は思わないものである。
視座を切り換える力がないと、このようなアドバイスしている側が、頭が硬く、柔軟性に欠いた解説しか与えられていないという欠点には気づかないものであったりする。相手が頑なになっている現実が見えないのである。「柔軟に」と指示されて、出来ない人の心理を理解も共感もしていないのである。

素直でないし、正しくもないし、思いやってもいない言葉かけだと気づける人はいるだろうか?

 

視座を切り換える力を身につけないと、的外れなコミュニケーションをしてしまう可能性があることを伝えたい。

 

あなたは、自分に素直であり、正しくあり、思いやりを持って誰とでも関わっているだろうか?

 

 

人生の豊かさは、人と人との円滑なコミュニケーションである。

 

 

満たされない思いを満たすには、満たされない心の奥底にある隠された思いに触れることだけれど、それは案外怖いものである。

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コメント

  1. Saori Ichihara より:

    コメントさせて頂きます。

    先の講座03.そしてこちらの04.を読ませて頂き
    ここ数日の悩み痛みとリンクし、打ちのめされています。

    理解し、理解されるというおとぎ話、
    お互い分かりあうというファンタジー
    当たり障りが無いお付き合いはそれなりにこなしているつもりだし、
    気の合う相手とはそれなりに仲良く、親しくははなるけれど、
    本当の意味での「コミュニケーション」が出来ているとはとても言えず、
    些細なことで疑心暗鬼になり、相手も自分も疑う心。

    そんな事の繰り返しからか、ねじ曲がった見方でなければ自分の心が救われない気がします。
    生物学的にヒトではあるけれど「人間」とは言い難く、
    そのことに対してどうすればいいのかわからない状況になりました。

    1. 噺家まさみち より:

      さおりさま、コメントありがとうございます。

      何か不都合があると、考えを止めたくなってしまうものですよね。
      嫌ですもの。
      考え尽くした先にある答えが、あまりに残酷なモノであるなら、そこそこに表面上の付き合いに留めておいて、その問題を解決しない方がマシになるものだから。
      うまく、やり取りして、当たり障りなくして、踏み込んでこられるのを拒み、二度とあの時と同じ思いはしたくないと願い続け、避け続け、いつか終わりが来る日を夢見て、変わりない毎日でありますようにと祈るもの。
      わかってる。知っている。
      どうにかしないといけないことくらい気づいている。
      でも、どうしてもしたくない。やりたくない。
      やらずに過ごせるなら、それを選びたい。そうして今日まで流されてきた。

      人ってなんだろう? 人間ってなんだろう?

      問いかけたことのない問いを自分に投げかけてみたらいい。知っていることを知らないことに改めて見たらいい。
      この現実に辿り着いた自分を全部否定してみたらいい。わたしを否定するのではなく、私の考え方、思い方、捉え方を変えてみたらいい。
      きっと何かヒントに繋がる筈だから。打ちのめされるということは、知っていた答えに辿り着いたからだ。
      気づいていた答えに触れてしまったから逃げられなくなっただけだ。逃げたくないからここに来た。

      私は知っている。答えを知っている。
      ただやり方がわからないだけ。知っている人を見つけただけ。

      何をここからしていけば、自分に問えばいい。答えはいつもここにある。
      立ち上がれ。動き出せ。
      今、何をすべきか考えろ! 思え! 捉え直して掴み取れ!
      目を醒ませ! 私がわたしに嘘などつける筈がない。
      わたしが待っている。私を待っている。
      幼き私が立ち上がるまで、優しいわたしは微笑むだけで何もしない。
      泣いているのは私。見ているのはわたし。

      答えを聞きに行け。答えてくれる人がそこにいるのなら。

  2. Saori Ichihara より:

    返信ありがとうございました

    腑に落ちるまで何度も読み直し、
    今までの習慣に流されぬよう意識しながら
    考え方、思い方、捉え方を疑ってみます。

    上手くいくかどうか自信がありませんが、
    上手くいかなかったらはまた振り出しに戻って
    何度でも何かつかめるまで繰り返し続けていきます。

    1. 噺家まさみち より:

      わからないまま、踏み出して行くことが答えだとわかれば今はそれでいいからね。
      よく決めたね。
      それが踏み出した一歩だよ。

      やった後に、「わかった」がやって来る。
      やる前に確かめようとするから間違えるのだ。

      「そうじゃない、それじゃない」と、思い通りに行かない現実で教えてくれる。
      気持ちをひとつにしてごらん。
      何かが起き始めるからさぁ。

      コメントを書く、返事が来た。
      それが心を動かしたことだよ。
      書いてみて、予測と現実と比較してみたらいい。
      理想や妄想と、現実を見つめてみたらいい。
      思い込みが外れたのか、狙い通りなのか? 自分の心に問いかけて、確かめてみたらいい。
      いいことをしたなら、いいことが起きるって気づいたらいいよ。
      自分にいいことしたとき、現実はうまく行くから。

      1. Saori Ichihara より:

        何が何だか わからないまま、
        どうやったらいいのか わからないまま
        わからないなりに「わたし」に問いかけてみます。

        ありがとうございました

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