視座別講座05.「割り切ることは優しさか罪か」 無料公開中

物事は、時として割り切っていかなければならない。
でも、だって、どうして? と湧き上がる気持ちに一々従っていては、物事に取り組めなくなるし、答えの出ない問いを持っている場合もあるからだ。

納得出来なくても、やり始めることで答えに辿り着くこともあるならば、やはり割り切って踏み出して見るのもひとつの道である。

 

心はあれやこれやと、要望を伝えてくる。
ああもしたい、こうもしたい。
こうして欲しい、ああして欲しいと願い続けるものだ。

わからないままでもやっていくしかない。
それでも、どうしても納得行かないことが出て来る。
目をつぶってやるにも幻界がある。

 

「わかり合えるよ」

「わかり合うことなんて出来ないよ」

「わかり合えることもあれば、わかり合えないこともあるよ」

 

考え方を広げて行くことと、視座という心の目の使い方を変えることは違う。

割り切るという心の使い方も、価値感をぶった切って、目をつぶって取り組むというものもあれば、価値感は変えず、見せかけだけ調える割り切り方もある。別の価値を与え直して、一見割り切ったように見せかけて割り切らない方法論を見出して取り組むこともある。

「(心の全てを見せ合えば)わかり合えるよ」
「(悪い心をなくせば)わかり合えるよ」
「(信じ合うことができれば)わかり合えるよ」
「(許し合うことができれば)わかり合えるよ」
「(いつか)わかり合えるよ」
「(わからないから)わかり合えるよ」
「(心を開けば)わかり合えるよ」
「(そう思うから)わかり合えるよ」
「(あなたの言う通りだとわかることが出来たから)わかり合えるよ」

こんな具合に、括弧書きの部分が変わると、視座が動く。
そして、話す側、聴く側の視座が違うと話が合わないこともある。
「わかり合えるよ」という言葉だけだと、その中に含まれるニュアンスを感じ取るのは人それぞれ違ったりすることが起きる。

「わかり合うことなんて出来ないよね(でももしかしたらわかり合えるかも?)」
「わかり合えることなんて出来ないよね(今までの経験から答えるとさ、そう思うしかないよ)」
「わかり合えることなんて出来ないよね(みんな言っているから、悲しいけどそれに従うよ)」
「わかり合うことなんて出来ないよね(そういう仮説があってもいいけど、確証はしてない)」
「わかり合うことなんて出来ないよね(根拠も何もないけど、なんとなくそう思ったから言ってみただけ)」
「わかり合うことなんて出来ないよね(事実に基づいて検証するとそうとしか言えなくなるよね)」
「わかり合えることなんて出来ないよね(そう割り切っていた方が、期待して絶望することもないからさ)」
「わかり合えることなんて出来ないよね(期待外れな体験しかないからそう思うようにしたよ)」

こんな具合に、括弧書きの部分が加わると、視座の動きが見えてくるかも知れない。
このように、視座というものは幾つもある。
「わかり合うことなんて出来ないよね」と一見冷たく見えても、その背景にあるものはそれぞれ違ったりする。これが一人の人の心の中に全部含まれていることだってある。
言葉の雰囲気、ニュアンスという行間を読めという感性を磨かないと、相手がどんな含みを持たせて発言しているかわかりもしない。抽象的過ぎては、人は混乱する。しかし、抽象的な表現で理解し合えるとするなら、人は感動を覚えることが出来る。

視座を多角的に捉えられるようになると、人を感動させられるように変れるとも言えるのだ。

だから、「わかり合えることもあれば、わかり合えないこともあるよ」なんて表現は、どの視座にも言えることになってしまう。物事を短絡的に結論づけるのではなく、長い目で見て、全体性を捉えて、本心は何を思っているのか? それを推察する力を養うことが、視座を知るということになるとしたら、少しは視座を学んでみようという気になるだろうか?

 

あなたの心の目は、何を見ているのか聴かせて欲しい。

良かったら、「わかり合えると信じる理由について聴かせて欲しい」。
もしくは、「わかり合えないと結論づけた、価値感、解釈など、持論を聴かせてくれると、みんなの参考になる。話すことで、自身の心の整理にも繋がることになるから、書いてみたりしてみないか?」。

 

 

いつものあなたは、もしかしたら見たいだけのわたしの幻かもしれない。

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コメント

  1. Saori Ichihara より:

    心の棚卸になれば、と参加させて頂きます

    わかり合えないと結論づけた価値観、解釈ですが、
    「本当は私はこういう気持ちなのに、違う解釈をされた」
    「そのズレを説明してみたが、やはり通じず勘違いされたままだ」
    「やがて説明して勘違いを解く、ということに疲れてしまい、
     わかってもらうことは無理なことなのだと思い始め、
     わかりあうということを諦めてしまう」

    という流れが分かり合えない、という価値観を初めて(子供時代)心に
    感じた体験でした。
    また、相手も私に対して同じような価値観で私を見ているとしたら?
    ますます分かり合うことが遠くて複雑な、すれ違い状態になります。

    以前、同じ赤いものを見た時、私が赤と思っている色と他の人が見ている
    赤色は同じように見えているのだろうか?
    私が赤と言っている色は、他の人たちには私が青と呼んでいる色に
    見えているのではなかろうか?
    という妙な問答にハマったことがありますが、色の部分を心や感情という言葉
    に置き換えると、分かり合えない気持ちのズレがなぜ生じるのか?
    一生懸命説明しても分かり合えない時が出てくるのはなぜ?
    という部分の私なりの解釈の表現になるかと思います。
    (私にとっての悲しみという感情が、相手には怒りに見えているのでは?などです)

    1. 噺家まさみち より:

      良い表現だと思いました。
      同じように見えていないとするなら、すれ違いのままになりますよね。
      しかし、同じものを見て、別のものに見なさなければならない事情が背景にあるとしたら、それを紐解けば同じように見えるようになるとも言えます。
      どうして、赤を青と見たのか? 青を赤と見たのか? 赤はやはり赤なのではないのか? 青は青なのに、何か特定の何かがあれば赤に見えてしまう事情は創り出せるのだろうか?
      錯覚は何故起きるのか? それを紐解ければ、心の謎解きは出来るかも知れない。

      そもそも、誤解があるなら、誤解の解き方だってあるはずだからである。

      1. Saori Ichihara より:

        勉強させて頂きありがとうございます。
        同じものを見てすれ違う要因として
        ・それぞれ生まれ持った性質
        ・これまで生活してきた環境
        が大きいように思います。
        兄弟などのようによく似た環境で育っても、生まれ持った性質がネガとポジほど異なると
        ネガの方は「たまたま今回は分かりあえただけで、いつもこうはいかないよ」
        ポジの方は「やっぱり予想通り分かりあえた。きっとこうなると思ってたよ」
        という位に、同じ結果に対する感じ方にすれ違いが生じる可能性があり、
        生まれ持った性質が似ているとしても生活してきた環境が海と山ほど異なると、
        気は合うかもしれないけれども、それぞれ育った環境での楽しいと感じる事や、
        辛いと感じる事が単純にシェアできず、どう楽しいか?大変なのか?
        という感情の背景にある事を説明するのが大変なのでは、と考えました。
        先に書き込みした色で例えると視力が良いという性質ならくっきりとした色使いでモノが
        見えるのだけれど、近視という性質には境目の色形がぼやけて見えるという誤差が生じ、
        いつもかけているサングラスの色によって、見るモノの色が違って見えることが環境の
        違いに置き換えられるのではと考えました。
        視力が良い方が近視の世界観を知りたいのであれば眼鏡屋などで近視の疑似体験が出来る
        レンズを体験してみる事で分かるかもしれませんし、近視なら眼鏡で矯正することで、
        くっきりとした色使いの世界を知ることが出来る。
        いつも青いサングラス越しにものを見ているのであれば、自分がかけているサングラスで
        景色に色がついていることにまず気づき、赤いレンズのサングラスもある事を知って、
        それを試してみることで新しい赤色という世界を知ることが出来るかもしれません。
        心でこれをするとなると、何となくではありますが相手の目線で見る、
        という視座の話とほんの少しではありますが重なる所があるのかなと思いました。

        1. 噺家まさみち より:

          考察を楽しんでくださいね。
          遊び心が解釈を広げてくれます。

          何事も違いを受け入れることの壁は、自分の見え方を絶対視しがちであり、相手の背景もこれまでの経験上、想定済みと思い込むことに問題が隠されています。

          青いサングラスの人が、赤いサングラスをかければ違いがわかる。というのも、青も赤もサングラスをかけたことのある人は、相手が年齢も肩書きも上の立場の人が赤しかサングラスを持っていないと想定することが出来ない弱点を抱えていたりします。先入観というものです。
          自分の持ってないものを、持とうとする解釈は受け入れられても、既に持っているでしょう? とこれまでの経験から憶測する限り、持ち合わせなければ説明がつかないようなことは、頑なに相手の主張を受け入れないこともあります。自分の言葉が、どんな含みがあるかさえ、自覚無い人も多くいます。

          言葉の背景を全部含んで想像してみることが、視座を変えてみることへ繋がるかも知れませんね。
          また、色々と考えを巡らせてみてください。

          1. Saori Ichihara より:

            ありがとうございます

            書き込みをした後に「サングラスを外した世界があること」を見落としている事に気が付きました。色のついたレンズ越しでない見方とはどういうことか?を中心に再度考察してみたいと思います。

  2. Saori Ichihara より:

    だんだん混乱してきましたが、一度頭の整理のために書き込みさせて頂きます。
    色々考えているうちに、「そもそも感情そのものや、分かりあえる、あえない」という抽象的で形のない概念に私(達)はいつ頃から「怒り」「悲しみ」「喜び」「分かりあう」などという名前付けとかラベル張りという行為をするようになったのかという疑問が出てきました。
    子供が湧き上がる感情に「これは悲しみ」「これは怒り」と識別していくプロセスが、子供を育てたことがない私には具体的には想像しにくいです。
    自らの子供時代を振り返ると、絵本を読んでもらったり幼児向け番組に登場するキャラクターなどのやりとりに夢中になりながら自分の日常の感情と照らし合わせ、「楽しいってこういう時に感じる気持ちの事なんだ」という具合に理解していったのかなと思います。
    戦時中~終戦直後のテレビや本も満足に無い頃はどうだったのか疑問が残りますが、年上の子供との遊びや寝る前に聞いた昔話などから学んだのかもしれません。教育の影響もあるかと思います。
    感情への名前を付け方自体が「人によってあいまい、千差万別」だと考えると、「悲しいから落ち込んで深刻な表情になっている」のに「ムッとした表情だから、きっとあの人は怒ってるんだろう」というようなすれ違いが生まれるのは当然な事のように思えてきます。
    分かりあう、という経験が乏しいと、相手から「今日は楽しく話が出来て、お互いのことがよく分かって楽しかった」と言われても「確かに楽しかったけど、分かったってどういうこと?」となったり、「今日はちょとすれ違い気味で分かりあえなかったね」と寂しげに言われても「それが当たり前じゃないの?ちょっと話した位であなたのこと、大してわからないよ」となるすれ違いが生じ、「分かりあう」ということが理解できない私は赤い色のサングラスを持っていない自覚がなく、寂し気だった相手は「私が赤い色のサングラスを持っていないこと」が理解できていない、という事なのかなと考えました。
    気持ち、感じ方、感情そのものに皆それぞれ、どんな名前を付けているのか?相手の言葉からこれらをどう読み取るのが最善なのか?一体どのような言葉で説明すれば私の心の内を相手に理解してもらえるのか?
    言葉の背景を細かいところまで想像していく、という事の重さ、むつかしさで途方に暮れてしまいます。
    私がこのような理屈を考えることが、実際の人間関係で分かりあうという事にどのような形で役に立つのだろう?という疑問も湧き出てきました。

    長文失礼いたしました

  3. Saori Ichihara より:

    昨日から少し目線を変えて考察してふと思いつき、調べてみたのですが色も音も通信などに使われる光も波長(周波数)で違いを識別しているということに気づきました。
    音ですと有名なのはラの音が440ヘルツ、などです。
    同じように感情や感じ方とい心の現象にも波長や周波数がひょっとしてあるのではないかと。
    乱暴な例えですが、喜怒哀楽それぞれ何ヘルツみたいな感じでです。
    そこで更に気づいたのですが、心の器のような普遍的な地図があるとして、そこにグリッド状に細かく座標をおいてゆき、例えば喜びなら喜びの座標部分に点を置く、という方法で「今の私の喜びは443の位置にある」という説明方法を採用するならば443の喜びを体験した事が無くても理解する糸口になりうるのではないかと。
    シンセサイザーのような楽器ですと、周波数も波の幅もかなり自由に作る事が可能なようですが、そのようなツール、アプリのようなものが心に取り入れられるとするならば500の座標の喜びしか体験したことが無くても443の喜びの疑似体験や具体的想像は可能になるかと。
    ただ、単に私が思いついた机上空論にすぎず、心において他の周波数を体感できるツールとは何なのか?という事までは現時点では答えを出すに至っておりません。
    考え始めたら大変面白くて連日の書き込みとなり申し訳ありませんが、昨日よりだいぶ考えが整理されてきました。
    また考え方そのものと、初めの問いに対する答えとして方向性があっているかなどは未知数ですので、見当違いな書き込みでしたら重ねて大変申し訳ありません。

    1. 噺家まさみち より:

      まとめてのお返事、ご容赦ください。

      面白い解釈をはじめてくださり、そうそう! そういうことだよ! と同意を表わしたいものです。
      疑似体験アプリやツールがこの人の心にそもそもインストール済みで、基本スペックに備わっているとしたら?
      なんて空想的な発想もありなんですよ。

      もし、そんな基本スペックが誰の体にも心にも装備されていて、ただ未使用なだけだとするなら、人の能力は無駄に使われずにいるとかね。
      もったいない。

      人の能力を引き出すことが出来れば、そんな疑似体験さえも出来てしまえば、人とわかり合える、わかり合えないなんてことも、何によって阻害されているかさえも理解してしまえるなら、その疑似体験やアプリは起動させずにはいられなくなるのでは? 

      と、考えをまとめたくなります。
      その先にあるのが、閃きの世界や、直感の世界で、アプリ起動で使う直感と、無起動で使う直感は全くの別物だとわかると、もっと面白いかなと。
      解釈が高まり出すと、新機能というか、既存機能として持っていた事実に気づいて行くと、この体を更に高性能として引き出したい気持ちにもなるかと思います。

      そうすると、霊性などが、とても知的で深い解釈の裏付けがないと、怪しいもの扱いされて、一笑に伏されて相手にされないものになるのも頷いていただけるかと。
      知性なき、直感などはただの浅はかな低レベルな発想だけれど、それが叡智に基づくようなものだと、人と人とがわかり合える欠かせないツールに早変わりするのも想像できるのではないでしょうか?

      周波数などの発想いいですね!
      自由にこの場を使って、考えを練り上げていってください。

      1. Saori Ichihara より:

        返信及び考えをまとめる場としてコメントを利用させて頂いている事を許していただき、ありがとうございます。
        自らにない感情などを疑似体験できるツール、アプリが基本スペックだったら?私自身それが使えたら、という憧れも湧いてくると同時により多くの人たち、特に世の中(世界)のリーダー的立場の方がこのスペックに気づき、活用して政治、外交、会社運営をおこなうとしたら?四字熟語としての王道楽土のような世の中が夢でなくなるかも、という閉塞感を打ち破る希望が持てそうです。
        反面、誰でも持っているとはいうものの、そのスペックを引き出す為にはかなりの修養や修行と呼ばれる行動が必要になり、「簡単に誰でも使える」ものではないのでは?邪な目的の為に悪用されることはないのだろうか?という裏側にあることも気になります。
        感情などのような目に見えない心の現象を周波数や数値、地図に置き換えると分かりやすいのでは?という発想を評価して頂き、素直に嬉しくなりました。
        ひょっとして、もう気付いている方々にとっては当たり前の一般常識レベルの事なのかもしれませんが、自分で考えたり過去の知識や経験と閃きを頂きながら「ここ」にたどり着けたことに喜びを感じます。
        感情など、目に見えない心の現象を周波数のような数値化できる波のようなものと仮定して、また少し考えを広げてみましたが同じ500ヘルツの喜びでも、それが綺麗な波型なのかノコギリのようにギザギザした波なのかなどで感情や感覚に微妙な違いが出るかもしれません。
        周波数がせわしなくブレていたりするノイズのようなものが悩みや心の傷なのかもしれません。
        単純に数値を測って揃えるだけでなく、相手の心のこのような微妙な変化や不規則な数値も読み取らないと「よりよく分かりあう」ことは難しいのかなと思います。
        相手に合わせたことによって初めて体験する周波数の場合、楽しいほうなら問題は少なそうですが、悲しみや怒りの場合は恐怖心を感じたり重くて逃げ出したくなるようなものもあるかもしれません。
        「そこまで受け入れられる心の器」が持てたとしたら人生はかなり幅広く深く、人と分かりあう醍醐味も大きなものになるでしょうが、かなり心を修練しないと「もっとあなたの事が分かりたくて使ったはずのスペックで心が折れてしまう」という事にならないのか?と考えたりしてしまいます。
        表面の当たり障りのない関係を中心にこれまで生活してきた人間が、相手の深い所まで細かく数値や波形というツールを活用して共感し、分かり合おうと切り替えるには相当な覚悟がいることを再確認した、という事が本日の考察のまとめです。

        1. 噺家まさみち より:

          楽しい会話のやり取りをありがとう。

          わたしが基本スペックと考えるのは、わたしが自身へ希望として持ちたいからでもあります。
          私自身、心を周波数のような波と捉え、それを的確に受信できる精度を持ち合わせることに修練を重ねて来ました。
          まさに修行みたいなものです。
          とはいっても、滝行とか、座禅とか、ご大層なことなどほとんどしておらず、ただ夢中に今のあなたのように、考えつくのが楽しくてやっていた、そんな感じです。
          実際、構造として周波数とか、心の傷はノイズだという解釈は的確だと思います。
          ノイズなら除去すれば、クリーンな感じになる。それが清々しさや、心地よさだというだけだと。
          ただ、それを機械で測定したり、アロマやヒーリングミュージックという心地よさをもたらすモノで、クリーンにしてもらえるのは理屈でわかるけど、何かが違うって感じるのです。
          実際、意識をつかって、的確に自分の心の奥へアクセスしたり、他人の気持ちを汲み取ることが出来るとするなら、そっちの方が人らしいのではないかとね。

          途方もない修練とか書いて、脅かしてしまいましたが、やっているのはただ好きだから取り組んでいる、自分の心が楽になるからやらずにはいられない。
          そんなものです。気長に取り組めばいいくらいに思っています。
          それでも、わたしはそんな心のスペックに取り憑かれるくらいになって、こんなことしていますが、元を正せば社会不適合者でしかないですからね。
          社会に馴染めず、家族を壊して、自分の世界に閉じこもるつもりはなくても閉じこもっているようになってしまい、それでも仕事として社会に関わっているのだからいいじゃないかと、言い訳しながら生きているのですよ。

          立派な人でも、尊敬されるようなことなどしていませんし、ただ好きが高じて、少しは人の役に立つくらいのことが出来ているかなぁ? って思える程度です。
          いかに、「好き」に心を染めるかで、周波数として意識レベルなんて心を計測する方法も知って、夢中で紐解いたりしてね、まさに人の心は波形そのものだと思えるようにもなりました。
          逆波形をぶつければ、対消滅してノイズを消してしまえることもわかり、それは「今」この瞬間でしか紐解けないのもわかったので、既存のマニュアルというものが本当に役に立たない代物だというのもわかるようになりました。

          そして、相当な覚悟というのは確かなもので、わたしは破綻した人生を見て、全部捨てる思いで、自分の心の探求に取り組みました。
          ある意味、自分を救わなくなったんですよ。もっと根源的何かが間違っているから、現実が上手く行かないと考えるようになって、そのノイズ探しに躍起になってしまっただけです。
          誰だって、幸せを感じたいし、上手く生きられるようになりたい。
          ただ、この私の考え方ではダメだったと気づけたのが幸いだったんでしょうね。
          考え方が良くなければ、変えればいい。

          「オレって、相当いい奴なんだけどな」
          だなんて、根底の優しい自分だけで生きてみようみたいな気持ちにも変わってね。それを覚悟というなら覚悟だと思う。それには知識は大事だし、自分の心が左回転していたなら、右回転に切り換えるほど無茶な感じはあったけれど、取り組めば出来たりするものだともわかった。「人って本気で痛い思いするとやめる」というのが実感で、痛みが平気な痛みもあることがわかるから、何が嫌なのかって、幸せになることや、愛されることさえも嫌がる痛みなんてのもあることが見えてくると、自分の全てを作り直さないとはじまらないんだなぁっても思いましたね。

          可能性を感じ、可能性に掛け、その仕組みが基本スペックとして人の機能としてあると実感出来た時、これだけで人は変わることが出来る! なんて確信めいたものを感じてきたけれど、中々人に伝えるのは難しくて、四苦八苦しています。だから、こういう気づきのやりとりは楽しくてたまらないのです。

          構造や仕組みよりも、実際に機能させて使いこなす方が重要なのは理解しているかと思います。
          アスペルガー症候群がなぜ起きるのかとか、憑依と簡単に見えない霊の存在について「憑いた」とか言うけれど、そのメカニズムを解明し、理解し、共感して、憑かなくすることの方が重要な問題だと思うのですよ。わたしなりにまだまだ臨床例が少なすぎますが、アスペやパニック障害など、現代医療では紐解けないもののメカニズムを論理的に解明し、治療できる人を増やすことが出来、仕組みとして世の中に存在させることができれば、かつての自分のような苦しみ方をする人をぐっと減らせるのではないか? そんな夢さえ持つようにもなれた。

          科学者たちや研究者たちがやっていることでもあるけれど、それを差し置いて、何か世の出せるものをと考えていたりはする。

          世の爪弾きになった者が、自殺しない代わりに選んだ道が自分の心の探求で、それがちょっと面白く不思議で魅力的なものとなって、コアなファンが生まれるなどしている現象は楽しいものだったりするからね。世界と心は繋がりあっている。とかさ、言葉で解説するのはいくらでもわかるけど、実感が持てない言葉も多い。何か隔絶されたものとかね、まだまだわたしの中にもある。そんなものも周波数として、捉えて、逆波長を当てて外して行きたい。って思っている。忙しすぎて、後回しにしてしまっている現実もあるけどね。

          ただ、修練とか修行とか覚悟とかいらないと思っているのが本音でね、必要なのは見てくれている人なんじゃないかなって思うよ。
          見ていてくれるから、出来るようになる。
          そんな風に思うよ。

          1. Saori Ichihara より:

            ノイズを消す方法が逆波形をあてるという方法が、心を周波数に置き換えた場合の例えで私が思いつくことの一つの区切りであったようで、必死で考えていた時から少し気持ちの冷静さと、軽い虚しさに近い冷めた状態にとらわれました。
            ああではなか、こうではないか、と色々考えてきたけれども実際に私には何ができるわけでもない。
            理屈や理論が分かっても、それを実際何かに活かせなければ分かったことの価値は大きく減ってしてしまう。
            理屈っぽく考えてるばかりでは意味が無いよね、とはっきりと言われても否定できません。
            理論ばかりの私よりも、多少疎い所があっても実践して人の為に何かしている人の方がすばらしい。
            あれこれ考えてすぎて迷った結果動けない私よりも、考えるよりも先に災害ボランティアなどのような活動に体が動いている、フットワーク良い人の方が実は、体感を通して色々な事が分かってるのではないか?と。
            今回分かりあう、あえないという課題をきっかとして色々思いを巡らせてみましたが、自分のノートではなく、掲示板という場をお借りしてしているということは、「誰かに見てもらって、共感でも別の見解でも何かしら反応が欲しい」という事が心のどこかにあるからだと思います。
            見てくれる人がいる方が一人ぼっちで何かするより得るものが多いのかもしれません。
            表向きは「あれこれうるさい意見を言われたり、否定されて落ち込むのが嫌だからひとりで考えてる方がいい」と言いながら、心の別の部分では「出た結論を自己完結させて埋もれさせてしまうよりも、誰かと共感したり意見交換するという形でシェアして分かりあう方がいい」、という真逆の思いがあるのかもと少し感じます。
            分かりあう、ということに思いを巡らせていると疑いの念によく似た感情に囚われ、そこからまた別のネガティブな感情が生まれてくることを感じています。

          2. Saori Ichihara より:

            また失礼いたします
            原点に戻ってわかりあえる、わかりあえないということについて考え直してみました。
            もし、人間関係のすべては自分の手の中にあり、相手など気にせず好きなように振舞うことが当たり前であれば「あの人とわかりあえる」という事など微塵も考えないのかもしれないし、誰ともかかわらず、1人ポツンとしていても寂しいとも何とも思わなければ「みんなとわかりあえない」という疑問すらおきないのかもしれない。
            自分以外の人間に関心があり、無自覚にでも親しくなりたい、仲良くしたいという思いがあるから「わかりあえる」ようになりたいとあれこれ考えを巡らせるのだろうし、独りぼっちはやっぱり寂しい、という思いが「わかりあえない」という悩みを起こさせるのではないかと思います。
            心は周波数だとか、アプリのようなものがあればとか、逆波形がどうだとかの考え方について、無機質で機械的な解釈だと感じたりするのですが、エゴなふるまいに徹することもできず、孤独にもなり切れず中途半端で、人との関りについて潜在的に悩んだり迷ったりしているから夢中で思考をめぐらせたのかもしれません

          3. Saori Ichihara より:

            何度も申し訳ありません。
            周波数を実際に扱う方法があるとするならば?
            例えば言葉で心の周波数が動くとしたら?を考えてみました。
            今周りで風邪をひいている人が多いので「お大事に」という言葉を相手にかけた場合、ただ単に「お大事に」と言うのと、相手の事を本当に気遣って「お大事に」と言うのとでは同じ言葉でも何かが違うのかもしれない。
            単なる口先の「お大事に」より、何かがこもった「お大事に」の方が相手の心へ届く何かの力がより強いのかもしれない。相手を気遣う事の奥にあるものは?と思っていたら「愛」という言葉が出てきました。
            あまりにも突拍子もなく思いつき、ある意味ありふれた言葉ですので、この言葉が出てきたことに初め驚きましたが、本当の意味で心の底から湧き上がる「愛」というのはとてつもなく深くて難しいなと呆然としました。
            「そうか、愛なのか」分かったふつもりになって「お大事に」を言ったとしても、多分言葉には何も乗らないでしょう。逆に本当に心の底から「お大事に」以外の言葉をかけられたとしたら、相手の辛さなり、苦しさなりに深く寄り添ってかけた言葉であれば先に出た「誰でも本当はもっているアプリのようなもの」になりうるのではと。
            ただ、先にも書きましたが「愛」と言葉にすることは簡単ですが、これを分かるという事はとてつもない難題のように思え、一体何からどうすれば?という新しい疑問が生まれてきてしまいました。
            いつまでたっても終わりがないような内容を、長々と書き込みを続けて申し訳ありません。

          4. 噺家まさみち より:

            コメントの返信が遅くなりました。
            何度も投稿してくださいね。
            理屈や理論がわかっても、実質現実的に行動に移せる方が素晴らしいという考えなどは確かにあります。
            ただ、それを言ったところで、動けない人は本当に動けなかったりするのもわかるので、動けない人を軽視する気持ちにはなれません。
            こう見えて、自分の心の傷を癒やさなければ動き出せなかったことはたくさんあるのです。
            そして、ネガティブな思いさえも、知り尽くしてやる! という思いでネガティブが望む言葉の限りを全部拾い出して何が目的だったのか? それを探求し尽くしてみるというのも「行動」だと私は思ってますよ。以外とやってないのです。「悪い」とか「いけない」とか自責の念で止り、それ以上の理屈などを自身の中から見いだそうとしないことの方が余程なにもしていないと思います。考え尽くすという行為も、立派な行動だと私は思います。もちろん、様々な状況と状態に応じて、これらの尺度は変るものですからね。

            「わかりあえる、わかりあえない」
            については、様々なケースを深く考察し続けてみることです。
            その状態に追いやられるものと、自分がそれを望んでその状態を目的にしているものとで、見た目は同じでも心理的なものが違うという具合にです。
            そして、根底に「わかりあえる」という前提で考察を重ねるのと、「わかりあえない」という前提で考察を重ねても結果は変るものです。
            無機質で機械的なものが正解で、有機的で生身的なものが不正解な場合もあるとしたら、どんな時生身的な感情が邪魔をして、無機質で機械的な冷酷とも呼べる冷淡な冷静さが喜ばれることはあるのだろうか? と考えてみるのも一興です。

            「お大事に」という言葉に、心を込めるかどうかで相手の反応が変わるかも知れないという視点は正解だとお伝えしておきます。
            どうやったら、どんな言葉にも心を込められるか? というなら、その相手の痛みを受け入れているかどうかによって、言葉の質は変わります。
            これまでのブログでも「虚モード」「許しモード」「闇モード」などの表現を使ったことがありますが、それらがまさに周波数を意図的に切り換える方法論の一つです。
            事例で出していただいた「お大事に」は、最初は「闇モード」です。気持ちを込めてという表現で使う「お大事に」は、「虚許闇モード」という俯瞰した、一つ上の全てを包み込んだ心遣いの言葉だと思ってください。何気なく言う言葉より、思いやりを込めて気遣った言葉の方がより、温かみがあり、相手の胸に届くものだと言うことです。
            言葉が言っても伝わらないとき、このモードが適切でないと、反発を受けることがあるというものです。

            「愛」については、中々漠然としており、どういうことかわかりにくいものですが、定義がヨーガの中にあります。
            「愛とは、怖れを知らぬもの」
            「愛とは、取引を知らぬもの」
            「愛とは、比較を知らぬもの」
            と、この3つの表現で、それ以外に至ることが出来れば、「愛」ですよ。と考えれば良いのです。
            逆説的でしか、愛は表現出来ないものなんですね。この定義を知ったときは、私の心の中は全て愛ではないもので埋め尽くされていましたから、弱り果てましたが、この道標があったお陰で、愛を見つけることが出来ました。ご自身でも探してみてください。
            どうすれば、恐がらず、「〜のに」と見返りを求めず、「どうして〜」と、何かを理想や夢と見比べて、見劣りしている現実を受け入れられない姿は、自身の本来の姿ではないと思えるか? やってみることです。大切なのは、既に美しい心に様変わりした自身で、未熟な自分の心を見ることです。
            とてつもない難題ではありますが、一体何からどうすれば? という問いには、この3大定義を「愛」だと知った上で、物事を考察してみるといいですよ。
            どれもこれも、愛でなくてうんざり出来ます。_| ̄|○
            脳内でしこたま、遊んでみることです。楽しくなければ、心の探求はやってられません。
            いくらでも書いてくださいね。楽しいですから。

          5. Saori Ichihara より:

            沢山のヒントや提案を頂きありがとうございます。
            その時々の気持ちに沿ったものから、少しづつ思いを巡らせていきたいです。
            「虚モード」「許しモード」「闇モード」についてのトピックを以前読んだのですが、考えている時は思い出せず、回答から「そういえば」と気づき、改めて該当する記事を読み直しました。
            まだ消化しきれず、例えば一見名前が優しげな「許し」モードが結構厳しい接し方、というか言葉の表現になるのだな、という大変恥ずかしい解釈の段階だったりします。

            無機質で冷たいものが正解、で思い当たったのは「そこそこ深刻な問題で、自分自身に体験がない事」はその対応をしがちだな、と。例えば「離婚したんだけど」と知らされた場合、結婚経験がないから離婚するに至るまでの葛藤や痛み、決心など察することは出来ても具体的に想像しようにも出来なかったりする。
            大袈裟に「大変だね」とか言ったりするのも白々しい感じで何か違うように思う。
            だから、思う所がいっぱいあっても淡々と「結婚経験ないから難しいことは分からないけれど、そうなんですね」とあまり感情の起伏を出さずにドライに答えたりする。
            その後は相手がどのように話を繋げるか、でドライに続けるのか子供がいればどうするの?と心配したりという無機質でない対応に切り替わったりしたなと。
            他のケースだと「無機質にした方が相手の為になる」場合が思い当たりました。
            あまりあれこれ優しくお節介してしまうとダレてしまうなどで、これは他の人から私が時々される対応だったりしますだったりします(ーー;
            その場は冷たいな、もうちょっと優しく言ってくれても…と思うのですが、そういう言い方しないといつまで経ってもグダグダなままだよね?という場合もあるなと。

            まだ、今日書き込んだ事についても、他の事についても思いを巡らせてまとめていきたいのですが、途中経過な内容でも一度文字にして書き出す、という行動をしないと考えや思いが次のステップに進めませんので中途半端ですが、今日はここまで考えたという所を残しておきます。

          6. 噺家まさみち より:

            虚モードは、理想的なモード。
            現実が苦しくとも、嘘をついて平気だと上を向く力の心とでも思ってくれるといいね。

            闇モードは、夢的なモード。
            どんな苦難があっても、あいつが出来るなら私にだって出来る筈。みんなが出来るならやれなければおかしい。あの人について行っているのだから間違いない。この道を貫こう。
            という、思い込んで突っ走るモードとでも思ってくれたらいい。

            許しモードは、現実的なモード。
            弱音や泣き言が溢れるほど出て来て、自分の溜め込んでしまっていたものを吐き出すモードだ。
            理想が叶わず、現実に引き戻されるとか、夢破れて、結局この様だよ。って泣きを見て我に帰るモードとでも思ったらいい。

            これに加え、虚と闇、闇と許し、許しと虚を同時に使うモードもある。

            さらに三つを絡めていくモードもある。

            意識を高めていく為にはやっていく必要があるモノでもある。
            本来は、感覚でやっていき、こんな理論的なものを学ぶ機会などない。
            だから、成功しているような人たちはやっていたりするが、人に伝えるのは困難だったするんだ。

            何せ、一つのことを3つのモードで体感して、次の段階に入るものなのだが、指導していく人は一直線的に教えて行ってしまうからだ。
            もしくは、重要な部分が欠落して教えてしまうから、最終的に転んでしまうようなことや、出来る人はいいが、出来ない人に伝える言葉を失っていくこともある。

            さらりと書いたが、この3つのモードをどう組み合わせて自分の心で体現して行くかは、自分で掴んでいこうとして、自分の心を実験材料として検証していくのが一番だ。
            色々考察してやってみて欲しい。

            無機質対応についても、そのように現実問題として色々思案していくと、色々見えてくるモノがある。
            続けてやってみてほしい。
            区切り区切りで構わないからね。
            好きにここを使って欲しい。

  4. Ono Maiko より:

    わかり合えると信じる理由
    ・全てが繋がっているから。
    今認識できている意識でわかっていなくても、何か感じることがある、「いい、悪い、なんともない」どれも何かがあるから出てくるもの。
    なにもないと言うのも、逃げ隠れしたい気持ちからかもしれない。
    いい、悪いも逃げ隠れからの場合もある。

    わかり合えないと言うことが、わかった、わかり合えたと言うこともある。
    わかり合えないと知っているから、わかり合えたがわかる。
    だから、わかり合えなくてもわかり合っている。

    同意している同士でも、大元へ辿っていくと全く違っていたりもするから、表面的にわかり合えてることが日常的、理由や真因はほとんど違うと思う。
    どこまでをわかり合えるとしているか、全てと言うならわかり合えないとことが多く、わかり合えると言えることはごく少数の全てを捉えてみていく人だけができることじゃないかと思います。
    または、自分が経験してきたことでわかると言える。
    表面上、見た目だけわかっている勘違いで、わかり合えるができている場合が多いと思います。

    ・わかり合えない
    わかり合えないと決めて聞き入れず、なにも受け付けない人がいるから、わかり合えないけど、そのわかり合うことをやめて、絶対わかり合えない、わかり合いませんと決めているから、わかり合えないんだと言うことは、わかるから、わかり合えている。
    けれど、わかり合えないと決めているので、その人はそれも受け付けません。わかり合えない事しか認めない。

    わかりたくないと決めている人も同じです。

    わかってしまうと相手を認めたり、自分の考えを変えないといけなくなり、変化を嫌う人は現状維持に固守つして譲らないから、自分をわかる人がわかり合える人で、相手がわからない限りわかることにはならないとしている。
    自分が正しい、自分が全部知っている、自分がわかっていると思っているから、人が間違っていて知らなくて、わかっていない事になる。(そうしなければならなくなる)

    こう言う事全てが自分が自分を認めていない、自分自身をわかっていない投影だから、無視してきた自分、まだ隠している誤魔化している自分がいると言うことだと思います。

    私が日常でわかり合えないと感じるときは、その人に伝えられる言葉がわからないとき、伝わっていないことはわかっても、その人が私の言いたいことをわかるように言い替える言葉がわからない。
    相手の言っていることを、私のわかるように言葉を変換して聞くことができなくて理解できないとき。
    見ているところ見方、受け止め方受け入れ方が違う人に瞬間瞬間に対応する事ができない。

    本当に過程経緯、全てをわかっているのか?説明できるか?
    相手の代わりに自分が伝えられるか?
    と自分に聞くとほとんどわかっていない。自分のこともわかっていない、わかり合えていないと思います。
    だから、私の自身の事もわかっていないわかり合えていない。
    他人の事はわかっているわかり合えているはずもない。
    わかりたい。わかるようになる目を持つ。わかると言える様になるための今だと思います。

    みんなわかり合いたくてわからないから喧嘩しているのかなと、喧嘩でわかるようになるって言うことはないのかもしれないけれど、喧嘩もそんなに悪くはないのかもしれないと思いました。

    1. 噺家まさみち より:

      喧嘩でわかり合える可能性があるなら、喧嘩もそんなに悪くはないよね。
      喧嘩するときは、良くも悪くも本音が見えたりすることもあるからね。
      喧嘩を避けている人よりは、喧嘩している方が余程わかりやすい間柄だったりするのかも知れないね。

      ただ、目の前のことを一つひとつ、今できる自分のレベルで全力を尽くして、限界を感じたとき、その向こう側に立てるようになるんではないかと思うから、喧嘩でも何でもやってみたらいいかも知れない。

      思っている以上に、人はわかろうとしてくれているけど、全てが自分の思い通りだとしても、あらゆることを無視して仲良くしてしまうというのもアリかも知れないよね。
      ただ、人は思っている以上に臆病で恐がりだから、必要以上に繋がり合いたいと思わないから、わかり合えない方が楽でいいのかも知れないね。

  5. 「わかり合えると信じる」理由は、
    私にまだ、わかり合えた経験が無いからです。
    又は、わかり合えた経験を覚えていないのかも知れません。

    「わかり合えると信じる」のは、まだわかり合えた経験に到達していないからです。

    「わかり合えると信じる」という言葉の中に、わかって欲しい、わかってあげたい、わかりたい、わかってもらえるようになろう、わかるようになろう、わかろう、という希望と、今はわかり合えない、今はわかり合いたくない、今はわかって欲しくない、今はわかってあげない、今はわからないままでいようという諦めの大きく2方向の気持ちが含まれていると思いました。
    その全部が私の中にありました。

    そして「今はわかり合えない」と結論づけたのは、それが自分にとって都合が良かったのだと思います。わかり合えるまでのプロセスを経験したいのかもしれないし、わかり合えないこと自体を経験したかったのかも知れません。
    又はわかり合える経験をしたことがないので未知の経験が怖いのかも知れません。
    このままではいつまでも「わかり合えると信じる」ままで、わかり合える日は来ません。

    その「怖い」に飛び込む勇気が持てた時、「わかり合えると決める」ことができ、わかり合える日が来るのだと思います。

    1. 噺家まさみち より:

      うん、自分のいろんな気持ちをひっくるめて、どちらの方角にも意識を自在に動かせるようになれるといいね。
      全ての努力が虚しく散ったとき、どんな現実の心に触れられるか、そんな些細なシミュレーションから見つけられる心もあるからね。

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