そこここの3限目の感想

一生懸命働いている。
それは至極当然のこと。
でも、自分が思っているものと違った一生懸命だと、結果に繋がらない。

私が伝えようとしていることが、難しくて伝わらない。
厳しくて痛くて、聴きたくない。
なんてことがある。

そんなすれ違いを「そこここにある“ことばのちから3限目弘前」などを通して解説していたりもする。

3限目は人によって見え方がまるで違うというものだ。
資料を創り上げるまでは、困難極めるものだけれど、創り上げるとこんなに愉快で、納得出来る資料もあまりないと思う。まぁ、解説は痛々しいものを用意しているけどね。

上のリンクは青森県弘前市での様子だ(和服がだらしないなぁ)。
来年の開催予定が未定過ぎて感想だけ載せても申し訳ない限りだけど、機会が生まれたら、迷わず申し込んで欲しい。何限目からでも受けられる。全部で4限用意されている。

冒頭で書いたこととか、昨日も少し書いたけど、自営したり、独立したりする人と、それを目指しても自営に至らないとか、挫折するとか、副業はOKだけど本業に切り換えられないとかの線引きが、この○○者講座にはある。意識レベルの「そこここにあることばのちから」にもあるけどね。

意識を何故高める必要があるのか?
高め方はどうしたらいいのか?

等身大の自分と向き合うのはどのようにすればいいのか?

意識レベル200の「勇気」というレベルに、以外と人は合わせられないことがわかった。
つまり、自分そのものの現実を認められないというものだ。
これは相当驚いた。

みんなこうして、自分を無視して意識を高めていることが判明したからだ。
そんな嘘つきの意識の高め方をしても、基礎が腐っている状態で、家を建ててもそりゃ倒壊するわなってもの。

 

わたしは、最初から基礎を作り直せ。
なんて言うけど、多くの人はそれは冷たい、厳しい、難しいと感じるらしい。
だから、夢を持とう、希望にワクワクして進もうなんて甘い言葉の方が受けがいい。
現実を見せるより、夢を見せたら集客は上手く行くからだ。

現実問題、自身の根本を作り直さなければならないにもかかわらず、夢や理想を見て、現実を見ようとしないのだ。現実を追求しているようで、撫でているだけで実態を解明するには至らない。

何となくわかる。程度で、なるほど納得! だから上手く行かないのだ。
というアドバイスに対して合点がいって立ち上がればいいが、これまた立ち上がれないと来たものだ。
立ち上がっていても、自分を無視していたりするからどこかでへばって、気力が続かなくなり終わってしまうものでもある。

 

しかも、心の傷は、かなり自分に嘘をつく。
だから見せかけの優しさや、上っ面の言葉に簡単に騙される。

何故なら、ワクワクするからだ。
憧れるからだ。
期待できるからだ。

でもね、それって釣られているんだ。カモなんだよ。

自分を振り返って見て欲しい、習得してきた数々の資格が生きているのかどうか?
自分の知識を身につけたい、習えばなんとかなると思っている人。
ごめん、上に立つ人は、習う前に「やっている」なんて姿で出ている。
独立する人は、言われて何とか出来るようなものじゃない。

 

かく言う私も何とかみんなに言う側だが、素直に受け取ること=厳格なことに臨むこととして伝えている。
現実を見せるし、根底から意識が引っ繰り返らないと何も身につかない。

視座別なんてものは中々理解出来ないものだろうが、心がたくさんあって、心同士で相談し合って物事を決めていると思ってくれたらいい。そのくらいのものだ。それに○○者とその傾向をネーミングしているに過ぎない。

9:功労者「知っている範囲でしか受け取れない」
つまり、この視座は、自分の知っている範疇での物事しか受け取れないから、簡単なこと、楽なこと、わかりやすいこと、知っていること、頷きたいことしか、探していないのだ。だから、真新しいことは基本除外される。まさみちの講座やセッションは9割5分以上真新しい話をする。全部降ろしてくるからだ。閃きだからだ。見えないものを見て、それを伝えるから知っているような話はしない。だからことごとく自身の欠点を突かれる。見ていなかったものを暴かれる。だから聴きたくないし、見たくないし、知りたくない。敬遠する。嫌な気持ちになる。9割5分は知っている話をしてほしく、5分くらい真新しい話なら、仕方ない、聴いてやってもいい。というのがこの功労者の視座だ。とても偉そうだが、臆病者だから聞き入れられないのだ。騙されたくないし、支配されたくないし、低く見られたくないからね。そんな精神性で、カウンセリングを受ける必要はないでしょ。
だから、色んなキャッチコピーとか、セールストークでこうした功労者の抵抗を無力化されるトークにみんなハマっていくの。そんなもの「覚悟」とは言わない。懐柔されているとか、魔術にかかっているとか言うんだよ。
だから、セミナー受けても何も変わらないの。
変わる人は、最初からそんな魔術とかにかからず、必要だから受ける。って姿勢なの。
それでモノにして、頭角を現すの。そういう事例と、自分たちが同じと思ったらダメよ。土俵が最初からちがうのだから。

8:善悪者「みんながいいというものだけいいと思う」
この視座は、周りの反応が大事なの。感想やいいねの数が重要なの。自分の目や心で判断しているようで、していないの。聞こえのいいことが大事なの。喜ばせてくれることしか良いモノだと思ってないの。だから現実を突きつける深刻な内容とかはNGなのね。だから、セールストークに簡単に騙されていくの。だからセミナーで技術を習得すれば君も簡単に出来るようになる! なんて言葉にほだされて「簡単なら」という釣り文句に騙されるの。「簡単にオリンピックに行けるよ。」とは謳うコーチはいないにも関わらず、ビジネスは簡単に行けるみたいに言うのね。オリンピックでなくても、国体でも、県大でもいいさね。プロ志向の人は「簡単」とは言わないよ。そんな現実から目を背けさせて、気持ちを高揚させて、「君も出来る」なんて言われると「出来るかも」という気持ちに乗せられて、結果、何も身についていない現実に戻っている体験を何度繰り返したら目が覚める?
こういう視座に囚われている限りうだつは上がらないよ。

2:発明者「知りたいものを同じレベルで使えるようになりたいと思う」
7気調者、6無空者、5精神者、4安定者、3熟知者をすっ飛ばして、発明者について書くけど、上に立つ人はこの視座を使う。経営者で成功する、自営して起動に乗る人の多くがこの発明者の視座で物事を捉えている。知識には従ってない。厳密には知識から得られた実感覚に従っている。発明者は右脳側だ。善悪者や功労者は左脳側に位置する心だ。だから上手い話を知りたがる善悪者や功労者では、本質を掴む為の奥の奥に隠されているような直感的何かを掴もうとする発明者の心で、物事に取り組まなければならないのだけれど、これが出来ていない人が多くて講師と生徒にズレが生まれる。私は生徒に発明者になってもらいたいが、こればっかりは本人が掴んでいくものとなる。わかりやすく説明すると、感覚が掴めなくなる。実感させるように誘導させて掴ませると、何が起きているか自分で把握出来ないから再現出来ないことになる。この微妙なものを伝えようと奮闘しているが、中々「その気」になってくれない。その気にさせるため、「欠点を突く」ことをする。弱点だ。それを突かれると弱る。弱るのだが、それでも突き進む気持ちを持つのか? それとも「じゃあいいよ、やめるよ」と折れるか? という話が出来るようになる。その時自身の本気の無さ、意識の低さ、後ろ向き加減が暴露される。50万でも100万でもお金をかければいいってものじゃない。この弱点を突かれても進もうとする力は金ではどうにもならない。意気込みでもどうにもならない。実感覚として突いてやって、心を挫いてやらなくてはならない。それでも立ち上がれると自分を信頼し、講師を信頼できる者が進むのだが、落とし穴もある。脅しや騙しでこれを誘導する輩もいる。そういう者と比較されても、功労者や善悪者は「冷たいこと」「痛いこと」「気に入らないこと」を言われると、反感を抱いたり、信用を失う。結果、講師のアドバイスを文句として受け取ってしまって、対立して終わることになる。

そうならないように、囲い込みなどして50万、100万を支払わせ、最後まで面倒見るよプログラムをしている人たちもいるが、挫折する心の奥底にある心の傷の修復方法を心得ていなければどうすることも出来ない。

弱点を突くのは、私はそれを癒やして治すことが出来るから突くのだ。
とはいっても、幾らでもある。時間の限り尽くすが、それでも足りないくらい、理論ではどうにもならないものが心の奥に引きこもっている。際限ないくらい、続く心の傷の修復作業は別にやらなくても生きていけるから、やらなくてもいい。やれば抵抗なく前に進めるだけの話しだ。病気になりにくくなるし、表で笑い、裏で泣くなんてこともなくなる。

 

しかし、善悪者の周りに合わせる感覚や、功労者の自分の納得する言い方しか聞き入れない心というのは、中々厄介で、くぐり抜けてその奥にある発明者としての「やる気」に繋がらない。それがどうにも人に伝えられにくいのが頭の抱えていたりするものだったりする。

以下の事例は、どの視座の心を中心に発言した時の他の視座の実態を解説する。
発明者が「やる気あります」、善悪者が「やる気あります」、功労者が「やる気あります」と言った場合どう意味合いが変わるかを見てもらいたい。

2発明者:「やる気あります」
3熟知者:「やり抜きます」
4安定者:「使いこなします」
5精神者:「モノにします」
5精神者:「一人前になります」
6無空者:「同じことをやってみせます」
7気調者:「わからないところがないところまで、わかっていきます」
8善悪者:「嫌われ続ける結果になったとしても、その道を貫きます」
9功労者:「自惚れだとか、思い上がりだとか、生意気だとか言われて全てを奪い取られて、孤独に陥ることに至るとしても、私の信じた道だから、諦めずに進んで行きます」

こんなニュアンスの違いになる。
視座を合わせないと、解釈がズレてしまうことを感じ取って欲しい。

これが、善悪者なら?
今度は功労者から書く。

9功労者:「何か良くて格好いい感じがして、自分にも出来そうな気がして、わかりやすそうだからやってみようと思います」
8善悪者:「やる気あります」
7気調者:「私のレベルに合わせて教えてください」
6無空者:「言いなりにはなりませんが、わからせてくれたら、やってやってもいい」
5精神者:「みんながやれるなら、私もやれると思うので取り組んでます」
5精神者:「あなたのようになりたくて、側に居たいから習ってます」
4安定者:「辛い目には遭わせないでくださいね。そんな時代遅れのスポ根みたいな指導今の時代流行りませんよ。時代に合わせて、褒め伸ばしで行きましょう。軽く行きましょう。軽く。楽しく教えてくださいね」
3熟知者:「真剣にやるようなものじゃないでしょう? みんなで仲良くが一番よ。笑えるようにやっていきましょう。泣かせる指導ならやりませんよ。でも、知りたいから教えてください」
2発明者:「やーめた」

という具合に変わる。
善悪者の「やる気あります」は、発明者には「やる気ありません、やめます」と聞こえるわけですね。
残念でしょ?

次は功労者の事例を紹介する。

9功労者:「やる気あります」
8善悪者:「言い訳くらい許してくださいね。楽に出来るって誘われたからやっているんですから」
7気調者:「その気なんてないです。謳い文句通りなら、やれるようにしてくださいよ」
6無空者:「私程度の人もやる気にさせられないなら、講師なんてやめたら? 実験台になってやっているんだから、やる気を持たせられるように維持させてみなさいよ。よろしくお願いします」
5精神者:「どんな実力があるのか見物だわ。対価通りならいいけど、そうでなければコケ落としてやる。すみません、私でも出来るでしょうか?」
5精神者:「いい感じだから来たのだけれど、詐欺だったら許さないから。覚悟なんて持たせるなよ。人に優しくしろよ。こっちは客だぞ。良い話しが聴けると思って申し込みました」
4安定者:「つべこべ言わず、私を出来るようにしてみせろよ。こっちはやる気を見せているだろうが。どんな人でも手厚く持てなすのが商売だろう? やれよ。尽くせよ。跪けよ。いい人そうだから、私にも出来ると思って寄ってみました」
3熟知者:「おいおい、その知識違うんじゃないの? 私の知っている内容と相容れないのだけれど? 解説足りないんじゃない? なんだこの程度なのかよ。噂を信じてここまで来たけど、無駄足だったな。どいつもこいつも付け焼き刃で講師して、偉そうな宣伝文句で飾っているんじゃないよ。釣られた私も同類だがな。ここはひとつ、お手柔らかに、ご指導願います」
2発明者:「論外(申し込まない=やる気ありません)」

というように、功労者の「やる気あります」発明者の心の視座に置き換えて宣言するなら、「やる気ありません」と言った具合に、自分の感覚センサーとして働かないというものだ。
つまり、善悪者功労者「やる気あります」「やめる(途中で投げ出す)」「そもそもやらない(やる気なし」と同義であることが伺える。

脳内が、こうした自分自身は「やる気があります」と思って動き出したことが、結果として投げ出すことや、最後まで受けても、身につかない、もしくは使っていない技術や知識に終わることが多いことを伝えたい。

こんな心で、自営だとか、自分にも何か出来ることがあるのではないか? と模索しても自分自身のやる気ありそうな見せかけの姿に騙されて、ただいたずらにお金を浪費して終わるなんてことはままあるということだ。

自分自身、相当痛い目に遭わなければ、目が覚めないというのもある。

私も痛い目に遭って目が覚めた。

何を大事にするかは、人それぞれだし、キャッチコピー一つで財布の紐が緩み、うっすらとした関心しかなかったものをグイッと引き出されて、釣られて申し込んで、身につかないという結末は残念すぎるものだが、それも仕方がないと言える。

情報商品は、サービス業的な気持ち良く誘導してもらう類いではないからだ。
心地よくしてもらうというものならばいい。

自分自身もそのようになると、思うならばサービスを受けようとする発想は捨てなければならない。
生徒でありながら、先生(講師や施術者)でなければならないにも関わらず、この甘えたサービスして欲しい精神を逸脱することが出来ないのだ。

自身の商品価値を高めるには、セールストークが上手く出来る云々以前に、あなたがどれだけ人の痛みを我が痛みとして受け入れられるかという「絶対許せないこと」を「何があっても許して見せる」という知性を自身の中で生み出す力を持ち合わせられるかにかかっている。

理屈で覚えたら、終いだ。
知識を揃えたら、説得になる。
相手自身の身になって、そのどう見ても許してはダメ出し、裁き続けても気が済まない案件を、知識以外の関わりでもって、「許す道筋を届ける」ことが出来るように変容することが、情報商品としての価値なのだ。

人を理解(納得)させられるだけの「何か」を手にするには、自分が理解(納得)するだけでは意味がないことを知らなければならない。伝達されない知識や理解などは、納得できた知識とは呼ばない。人に伝えられもしない知識や理解する力など価値はないとしなければ、それ以上のものを手にしようともならず、足踏みすることになる。

私はサービス業ではない。
心の使い方、心の仕組みなどを伝えて、あなたにも使えるようになっていただきたいと願っている。

聴いたこともないことをしているから、識別さえ出来ない業種だ。
「心の調律師」なんていう肩書きでもあればいいかとも思ってもいるが、あなた自身が他人の心を調律できなければ私のしていることも出来た内に入らない。そうした点でいうなら、他の講師よりも程度は低いだろう。

 

先日、「発明者・善悪者講座」というものを開いて、ここに書いてあるようなことを解説して、いくつもの心の思い込みを取り除いた。わかっていて伝えようとする側、わからずに教えてもらおうとする側に、心の傷の有無で聞こえ方が変わることを解説した。

親として師として、傷の無い心で伝える場合と、傷ついた心で伝える場合。
生徒として、傷のない心で受け取る場合と、傷ついた心で受け取る場合の違い。

どちらも治っていなければ、誤解が生まれる。
その誤解の中でも磨き上げていくしかないのが技術であり、するべき事柄がある。
いつも取り残されるのは、治すに至らない傷ついた心そのものがそこに横たわっている。

 

 

 

あなたの感じるままに生きればいい。
人生の学びに近道はない。
同じものを学んでも身につく者と、身につかない者はいる。
どれだけ立派な講師と出会ったところで、講師が鍵ではなく、あなたが鍵だと気づくしかない。

そしてよく言われているように、「全てを失った者」の方が容易く気づける。
素直に聴くことが出来る。
それを考えて見たらいい。

 

全てを失ってでもいいから、この人生をわたしで生きたい。

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