断食で迎える正月

断食してます。
29〜31日の24時までの72時間。
私が独立して2年目だったか、1ヶ月かけて減食と断食と回復食という流れでやり、9日間の完全断食を行ってから4年して、再び挑戦。

あの頃とは違うこの閃きの中でやる断食はパワフルでした。
いやー、体が動かないわ。

燃料である食事を抜くと人はこうも緩慢になるのか? 動けなくなるのか? というのを痛感しています。
頭痛とかし始めて、そこにかかるストレスをリーディングで読み解いて頭痛を取り除くことしてますけど、内容が今まで見落としてきた方角でね。ずっと気に掛かって探していたものが見つかった感がありますよ。

12月に入り、青森前にパワフルな状態となって、「そこここにあることばのちから」を2〜4限目までやったりして、今までにない感覚で講座を終えましたよ。

そここにあることばのちから4限目の感想はこちら

これは凄かったね。
秘蔵の宝物を提供してしまった。そんな感じの講座だし、これを解説出来ている自分が凄い。
ましてや、ド初心者の一般の前知識ない方が、ほぼ覚醒体験とも言えるものをこの時起きてしまっているから、目が覚めるよね。ってほどのパワフルなものになりました。

そんなこんなで、駆け足で走り抜けた12月であります。

だから個人セッションもマジックみたいなものを使うようになり、手を叩いて変性意識から超意識に導いて調整したりすると、パツーンと一本ラインが通ってしまうことやっちゃうようになったのね。
これ本当にパワフルで意識が変わってしまうって奴。

もちろん、下支えの知識も必要だったりするから、何だかんだ言っても「知っている」情報によって飛躍できる領域の差異は個人差があるなぁって思うところです。

先日も「空(くう)に繋がらない」というセッションをしたのだけれど、この方、過去世やらなんやら鋭く正確に読み解けるのだけれど、阿摩羅識や乾栗陀耶識レベルには繋げられない弱点をお持ちだったのね。勿体ない。
ずっと、それを出来るようにしたら? と誘っていたら、ついにセッションでそれを問いかけて来ましたわ。

それでもって、空に繋げる道を拓くワークをして、見事道筋をつけて終わったんですよね。
私もやはれば出来る子になりましたよ。
難しいのは、自分で出来るよりも人が出来るようになることだったりする。
これを万人に届けられるようにしたらいいのだけれど、まだまだ私の中でも引っかかりがあったのね。

それが断食で浮上したって話よ。

空(くう)に繋げて、あらゆることが読み解ける段階に入っても、見つけられなければ外せないからね。
大事なのは「気づき」だったりする。

ついつい、お金が巡り、仕事も私生活も順調になると「これでいい」となりがちだけど、私も音楽活動などはじめて、未知の領域に踏み出すと、丸裸同然で、なんも出来ないの。動けない自分も感じたりして、環境変われば赤子同然の自分を仕方なしとするのか、ブロックなどの心の傷と見るのか? というものね。

断食すると、かなりの頭痛に見舞われたらから、このおかしな頭痛を読み解いたら、昔そういう意識で生きていたってことが事細かに出て来るの。ああ、そうか、かつてのうだつの上がらない生き方をしていた時分の価値感ってこれだよねってものがたくさん出て来て、それを受け入れきっておらず、切り換えて今日まで突っ走っていたんだとわかったの。

これ、本当に厄介でね。やっとこさ、道が拓けてきたよ。
まだあるから、続きもやるしね。

 

ここで、一度仕切り直しして、来年から新体制を取りたいと思って居場所も奈良に住み替えるなどしているんだけど、未来は未知数過ぎてわからんことばかり。

多くの人の力を借りて頑張って来て、燃え尽き症候群もあるかなぁと我が身の負荷の多さと、昏睡とばかり寝続ける我が身を見たときの休めなかった感を取り戻している最中だったりする。

前の絶食の時は、肉体から来る痛みとか紐解けなかったからなぁ。
腰痛にしても肩こりにしても、その痛みがメッセージを伝えてくれているってのもあるからね。
五行など駆使して痛みを取り除く施術もあるけどね。

さっき買い物に行ったら(0時からの断食後の食料を調達しに)、ふくらはぎが痛いでやんの。
だから、この年末はこの肉体から来る痛みをシェアしてまた来年とする。

 

「ふくらはぎの痛み」→「間違っていなかった」
何でもないことを、ご大層に重大なようにまくし立てて、人を混乱の渦に陥れる輩たちがいる。それを真に受ける純粋無垢な幼子の心を「イタズラ」と称してからかう連中を見たとき、仕掛ける側の善意と、仕掛けられる側が生み出す悪意を考えたら、行き過ぎたイタズラだとは思うだろうか?
結局、身内という最大の味方は、自分の欲望を満たすために年下の者たちへの扱いはぞんざいになる。
理に適う負荷もあれば、理に適わないただの暇つぶし的な痛めつけもある。
やる側の心の裏側には、悪意はない。だからやれる。
しかし、やられる側は、表向きは悪意にしか取れない。裏側の気持ちはもちろん善意として受け取るから、深刻にそれについて考える。
「悪いんだ」
と、誤ってモノを壊してしまった時に冷やかす言葉がある。
壊れると知らずに、扱い方を間違えて壊したことが悪いのか?
悪いことをしようとして悪い結果と繋がって、悪いと言われたのか?
そう言われたら、行為の全てである思いついた動機の部分から悪いとなる。
つまり、閃きや好奇心までも悪いこととして揶揄されたことになる。
指摘した側はそんなつもりはない。
された方が一方的に誤解するだけだ。
困っているところ、助け出す道筋を年上たちは教えてあげれば、味方だと思って価値感を共有するようになる。
別に問題あるわけではない。どこにでもある構図だ。
しかし、幼子たちは、年上の子の解釈に準じることばかりを意識するようになり、二度と「悪いんだ」と軽蔑の眼差しを受けないように恐怖に震え上がっている自覚もない。
何せ、年上の子たちさえ、悪意はないのだから。
良いことを教えているつもりでいるが、自分で考える力や、自分より優れている発想を肯定する力があるとは言えない。
年上と年下の発想力の素晴らしさが逆転したとき、年上の子は年下の子を素直に賞賛出来るだろうか?
私の体験上、賞賛されたことはない。
叩きのめされる体験しか知らない。
そうして、いつまでも自分の発想力を信じた生き方が出来なくなる。
全てを覆して、この呪縛から抜け出すには、「何でもなかった」と、そもそも「悪いんだ」と言われた体験から、解放される必要がある。何でもなかったのだ。壊しても、間違えても、それは人生において、特に問題にしなければならないものではない。何かを基準をしたとき、それは間違いになるし、成功への糧ともなる。好きなように解釈すればいい。ただ、好きな年上の人たちを前にすると、その人たちの言うことを聴いている自分が好きであり、そういう姿を見せていたいという思いもあって、いつまでも逃れられない呪縛を自分でしがみついているなんてことになる。
わかってない姿をさらけ出し続けていたのは自分だ。だから、わかってくれない関わりしかしてもらえないのだ。
やめよう。やめた。やめてよかった。
年上の人、目上の人、肩書きが上の人、どれも自分には大切な人たちだ。
それに依存し続けていた。
甘えていた。
出来る姿を見せようとしていなかった。もう、一人で歩ける。
さようなら。やってみるよ。
年上の人は、可哀想な人たちだ。それだけで何でも出来る、何でも知っている扱いされる脅迫感に悩まされている。
年下の人は、悪い扱いされてしまう人たちだ。それだけで何もわかっていない、わからない扱いされ、わかろうとする姿勢を生意気だとして感じ取られてしまう。
どちらに立たされても良いようにはならない。息苦しいだけだ。重苦しいだけだ。
わかっているのは「嫌いにならないで」という思いだ。
嫌いになるはずのない相手に、嫌いにならないでという逆の思いを抱いたら、嫌わない人に取っては気持ちいいものではない。だから、抱いた心の人にだけ相手が不機嫌そうに映る姿で見えてしまう。
嫌いになるはずなどないのに。
つい、私たちは見ている現象から「嫌われたのではないか?」という錯覚を抱く。
でも違う。
価値感の相違、見解の誤差はどこでも起きている。
それを埋め合わせていけば良い。そして埋め合わさなくてもいい。
何も無くても仲良くしていいから。
違いがあっても、同じ場所にいていい。
抱えているものがそれぞれ違うのは当たり前だし、代わりに背負うことも出来やしない。
代わりに背負おうと思うのが家族というものだが、家族だから背負われたくないという思いもある。
大切な人に負担をかけたくないという思いと、大切な人だから肩を貸して共に歩きたいと願うものである。
立ち止まって、ふと、自分を省みたとき、背負っているものがあったのかどうか?
うちの家族は、身内に負担をかけようとしない家庭だ。
美しいとも言える。寂しいとも言える。
背負う力がないと見なされ続けるのも悲しいものだ。
見たいような姿になっていくとしたら、ぐうたらと見れば、ぐうたらに益々なっていくという体たらくを表わすということが本質だとしたら、どうやったら見違えた姿として見てくれるだろうか?
より良い姿になっていくには、周りの眼差しを覆していく必要がある。
成長を信じている人の眼差しの中では成長していく。
こいつ、このままだなと眼差しの中では成長出来なくなる。
私に向けられている眼差しに気づくまで、足手まといのままとなる。
その眼差しを撥ね除ける力を持ちました。
今、立ち上がり、私も背負って行きます。
痛い思いをしてでも、負担を分かち合っていきます。
力を蓄えることが出来ました。
自分の足で立てるようになりました。
私に課せられていた人々の苦しみに対して解決の道筋をつけられるようになりました。
わかり合えるようになりました。
「助けに来たよ」と言えるようになりました。
私から話しかけていきます。
呼んでくれたから、答えました。

 

と、以上でふくらはぎの痛みから読み取ったら、本当にふくらはぎの痛みが消えたよ。
便利だけど面倒だと思う自分が厄介だよ。
ずーと、この道入ってからこんな事しかやっていないけどね。

 

大晦日といえば、除夜の鐘。
煩悩が108つあるそうで、108つ鐘を鳴らすといいとかどうとか。小さい頃聴いたことがあります。
近くのお寺で大晦日に鐘をはじめて突いたときは、大層喜んだものです。

今じゃ、この煩悩の108のラインというか軸がわかるようになって、それを全て解き放つことが一つの道でもあるんだなぁってわかりました。今で102つというところ。108つ外せても、まだ何かがありそうで嫌な気もするけど、ここ最近の変容ぷりは神がかっている感じもするのでね。

1/7は、奈良で電話セッション。
1/10は広島でセッションしようと思っているの。
また告知するけど、広島は対面優先にしたいと思うから広島まで来られる方限定ね。

ではでは、一年どうもありがとうございました。

 

 

笑えるためには笑えない状態の全てを紐解き笑えるように変える力を身につけよう。


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コメント

  1. あゝ、色々わかって楽しそうだなぁ(笑)!
    ほぼ断食はしょっちゅうしていますが、絶食は頭痛が酷くて3日まで続いたことがありませんでした。
    絶食3日頑張れば私も何か効果がありますか?

    1. 噺家まさみち より:

      みほさま、コメントありがとうございます。

      まず、断食について、「意味のない苦行をしても得るものは何も無い」って縛りを外して行おうね。
      これがあるから頭痛になると思うよ。
      三日間とか日数の問題ではなく、頭痛を紐解く発想の方が大事なんだけどね。
      耳識と阿頼耶識を同時に繋げ、下,西,北の方角にブロックがあるから、これで合わせられるといいんだけどね。
      これをやる前に5つのブロック外す必要があるかな?
      1,嫌われたままでいい。
      2,見捨てられる方が楽だ。
      3,忘れてしまっている。
      4,つまらないと嘆いている。
      5,出口が見つからない。
      というキーワードから辿れるかな? やってみてください。

  2. Saori Ichihara より:

    年末の記事のコメントからで申し訳ありませんが、あけましておめでとうございます。
    今年も引き続き、ブログを通して学ばせて頂けましたら幸いです。

    断食を意識的にしたことは無いのですが、主に熱などで体調を崩した時などに「断食のように食べれなくなってしまう」経験は度々あります。
    このような症状は断食状態を通して、心が何らかのメッセージを送っているのでしょうか?

    1. 噺家まさみち より:

      あけましておめでとうございます。

      体調を崩すと、食べられなくなるのは自然なことで、体調回復に専念するように体は出来ています。
      拒食などの病気以外は、食べたくないときは食べないのが自然です。

      心からというより、体からのメッセージと捉えるといいですかね。
      心は精神の心と、肉体の心と二つあり、それが繋がり合って一つの心と見た方が良いですね。
      更にオーラなど取り巻く心と、他者の眼差しによって創り出される心とあるけれど、その識別なんて難しいので、取り敢えず精神と肉体の心と見ておくといいかな。
      肉体の心は、文句も言いませんからひたすら精神の心に従い続けていると思ってくれたらいいかな。
      だから肉体は痛みを無限に蓄積するものと捉えてくれると良い。

      食べられなくなっている状態の体のサインとしては「何もしないようにして、やりたい、という力が負燃焼となり、たまった余分なエネルギーを放出する為に休む必要があった」という解釈が適当かと思います。やりたいことを制限なく、やってないと時々ダメージのようなグッタリが来るかもね。

      思いっきりしたいこと、やり抜いてみてね。

      今年もどうぞよろしくお願いします。

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