世界が変わりはじめている

功労者講座記事が益々わかるようになるジャストミート記事1
に、追加記事を添えました。(有料セッション記事です)
問題1、問題2の部分に「追加」として添えてあります。

 

自分が自分に対して、間違いなことをしていると気づいたら、改めて行くしかありません。
その時、それまで関わっていた人との関係がこじれることがあります。

こじれない人もいます。

本年より、音楽活動を中心に据えた方針に切り換えて、新しい幕開けとしました。

 

困難は相変わらずあります。
人生に問題が無いまま進む事なんてなく、予見できる範囲か、想定外なのかの違いでしかない。

人は、想定外を嫌う。

予測のつかないものだと知っておきながら、それが身内などごく信頼のおける相手から、手痛いことを引き起こされたとき、猛烈な拒絶反応が引き起こされます。

憎しみに似た、やるせなさと、諦めと、敵意や絶望感といった様々な思いが交錯し、斬り捨てていくことになるものです。物別れしていくことなど、人生にはつきものです。

 

例題として挙げさせてもらうけれど、SMAPの解散とて、方向性の違いでしかない。
守るものの違いでしかない。
受け入れる人もいれば、悲しむ人もいる。
でも、引き裂かれるSMAPそのものの立場にある人は存在を消されることになる。

 

何を言ってるの? と思った方は、ちょっと考えを貸してみてください。

SMAPは団体名です。
その中身は、5人の個人が集まって、グループ名にしています。

当たり前です。

でもSMAPとしての個性もあります。
グループの個性です。

これを依り代にしている心の人は、SMAPが解散すると、心が引き裂かれるという体感覚になるというものです。

私は五郎ちゃん、私は草薙くん、私は木村拓哉がいい。
など、SMAPを依り代とせずに、個人のファンであり、その延長線にSMAPとして見ている人は、解散してもそれほど引き裂かれる思いはなかったりします。

自分がグループ名に寄り添う人なのか、個人に寄り添う人なのかで、解散によるダメージは違うというものだということです。

これは悟りの世界ではよく例えられる話です。

この人が好き。
と人を好きになるにしても、集合体で名前があるだけで、指さしているのは、頭であったり、体であったり、手脚であったりするというものです。細分化すれば、皮膚であり、内臓であり、血管や骨であったりします。はたまた心とかね。そんなパーツパーツの集合体を「名前」として呼称しているに過ぎない錯覚の上にしか成り立たない世界だと気づかないと、不必要に苦しむことになるだけだと言うのです。

それでも、集合体として理解出来ない人は、まさみちに裏切られた、まさみちを見限ったと軽蔑したりもするし、受け入れられないと対立することになります。

 

去年までと、今年からでは、活動方針が変わっているので、これを裏切りと見ることも出来るし、酷い人として扱う事も出来る。私のやり方に異論を唱えてくれる人もいる。私や関わる人の面倒も見ることもない人が、不快感を示して「間違っている」と扱う訳です。つまり、SMAPならOKだけど、途中で方向転換して個別で活動するのは許せないと言う人がいるということです。これまでのまさみちならOKだけど、これからのまさみちはNGと自分の倫理観に合う合わないで判断する訳です。そして、言われる私もそれを望んでいるからそのように扱われる訳です。

 

またまた自分自身で気づきを重ねて、自分の世界で人を遠ざける心を見つけては統合を繰り返してます。
縦ばかり見ていた世界から、横に目が向いて、気づけなかった部分がどんどん紐解けるようになりました。

十字架が何故どうして、十字架をシンボルにしているかも人に伝えられるレベルに引き上がりたいしね。
縦とか横とか、なんのこっちゃ? かも知れないけれどね。

 

世界は変わり続けている。
解釈は人それぞれで、「いいもの」を「悪いもの」と感じられる世界でもあるため、同じものを同じように感じられない難しい問題があったりする。
同じものを同じように感じなければならないことはないけれど、「いいものはいい」、「悪いものは悪い」と、良し悪しはないにしても、「澄み渡る青空」と「薄暗い曇り空」を見て、「薄暗い曇り空」の方が安心する人がいることに対して、嫌悪感を示す必要がない世界にはなってもいいとは思うのね。

移りゆくものとして捉えていても、それを傍目なら許せるけど、目の前なら許せないとかね。

 

何にしても、自分の心が安定しているか、不安定になるかで判別しているものだもの。
全然平気。
としていたことが、ある時、許せない! なんてことに転じることだってある。
自分の中から湧き上がる苛立ちにしても、不愉快さなども、嫌なものは嫌だと言い続けたいとするか、嫌なものは嫌だったけど、いいことに変えるなんて心は「許しの心」なんて言って、どんなに天地がひっくり返っても許せないものを許してしまう心に「その場」「今すぐ」「この時以外無い」という決めて動くなんて真似が出来てこそ「許しの心」と言うのだから、そんな途方も無い心を養えているかどうか、常に問われ続けている世界だとしたら、この世界はまだまだ裁きと罰する罪意識で抑圧させて、「虐げられたくなければ言うことを聴け」という感覚で生きなさい。と、扱われている気がするね。

まぁ、私もまだまだ全然見通せていないところがあるから、人と衝突なんてするんだろうしね。

未熟者です。←まさみちのことだからね

 

それでも、そんな未熟者を未熟者扱いするのは、真っ当なことですし、正当なことなので、私のことを許せない、おかしい、間違っていると思っている人の方がやっぱり正しく、素晴らしく、美しいとも言える訳で、わたしがそれに従って行けば済むものです。だからそうしようと思ってます。

 

自然現象なんて、食い止めようもなく、起きてしまったことは、起きた事として扱うしかないです。

地震も津波も大災害などみんな、起きてしまうことなので、その後どうするかです。

 

どんなに拒んでも、起きてしまったら受け入れるしかないです。
避けて通るように気をつけるし、戒めるし、積み上げるものだけれど、崩れるときが来れば崩れて構わない姿勢は必要です。

こんな風に、あんな風に美しく、素晴らしく、気持ち良くしていこう! って貫いていくことで、成し遂げられるものもあるけれど、それが夢半ばで潰えることだってある。何かを積み忘れたり、後回しにしたり、気づかないままにしてしまったら、崩れて当たり前とも言える。だから、また最初から今度はそんな見落としも含めて見落とさないようにやり直して行くだけのこと。そのサイクルが長いなら許せるが、短いなら許せないというのなら、短くても許せるに変えて行けばいいだけのこと。今すぐ直せば済むなら、それに越したことはない。

どこまでも高みを望んでいけばいいし、こんな筈では無い、このままでいい筈が無いと、自分自身を自分で肯定し否定して作り直していく道に踏み出せば、より素晴らしいものが出来上がっていくだけのこと。ただ、これまでこれでいいとしていた人を裏切ることになるし、これで完成したと思い込んでいた人に対して、これではダメだと、職人気質張りに壊してやり直しを命じるような世界に連れて行かれるのは、嬉しい人ばかりではない。だから、休息の間が必要でもある。

 

でも、もう充分休んだでしょ?

苦しみ続ける人生も終わりにして、喜びの人生にシフトしたっていいじゃない。

ワクワクして、望んだものが望んだままに訪れる世界に切り換えてもいいじゃない。

決めて動けば、その通りにみんな協力し合ってくれる世界になっているなら、全てが素晴らしく夢の世界が現実のものとなるのだからいいじゃない。

何を今まで迷っていたの?

と、あっけにとられるくらいに素敵な人生がはじまるんだよ。

 

ここからだよ。

これからだよ。

そこここにあるよ。

 

共に行くと決めた人だけが見える世界がある。

世界は幾つも別れて存在していないと、互いに支え合えない。

 

望み通りになり、喜び合い、思いついたまま上手く行く世界は一つしかない。

超越した世界がはじまるよ。

 

どの世界も素晴らしいし、美しいし、気持ちいい。

一緒においで。

 

愛そのものは、愛でないもので支えられているんだ。
愛でない世界に支えられていないと、愛そのものになれないことに気づいて欲しい。

愛でない世界そのものも愛そのものだと腑に落としてわかる人であればいい。

抽象的概念を超越して、命そのものがわたしだと知っていれば、言葉を全て自在に扱えるようになる。
言葉の制限から解放された者にしか見えない世界がそここにある。

ここにおいで。

ここから全てがはじまるから。

 

今を生きている。
今に居る。
今のままであればわたしでいられる。

 

結び合う心と心と心がもたらす世界がある。
繋がり合う心と心と心が紡がれる世界がある。
縁合う心と心と心で紐解かれる世界がある。

 

愛し合えた者だけが気づける世界に立てる。

 

幸せだね。

 

 

 

あなたの優しさに今触れられた。

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