自分のことくらい自分でなんとかしなさいよ

親に言われた言葉の裏にある思いに縛られて動けなくなることがあるとしたら?

わかるまで探し続ける先に見つけた場所がここです。
辿り着いたあなたの感性に、「ありがとう」を伝えます。
絆があるから、見つけ出せた奇跡をみんなに贈る「ことば」の不思議がここにある。
ことばのカウンセラー・まさみちのブログで、新しいことばの意味に触れられることを願っています。
また、あなたに出会えた嬉しさと共に、必要とされている思いの欠片を置いておきます。

親から子への思いは、子にはわからぬものでも、きっと思いやってくれているのだろうな? と想像することは出来ます。

私も、親に「自分のことくらい自分でなんとかしろ」と言われるまでもなく、そのように思うようになっていました。だから、他人の心のサポート、ケアするカウンセリングの仕事については、賛成されないものでした。

それを認めると、他人は「自分で自分のことがなんとか出来ない」というものになってしまい、他人に対して失礼に当たる。下に見る。などという「心」に関してのみ、異常に干渉することを抵抗されたものでした。

 

まぁ、なんせ、親から見る子の姿が、他人から見る人の姿と一致しないものですから、「お前が?」「あなたに出来る訳がない」などと、自分たちのが持っている解釈を越えた力を見せたり、発揮するなどされると、困惑してしまうのです。「喜べる」一方で、見た手違いした「恥ずかしさ」や、「悪く見立てていた後悔」などが湧き上がるため、素直に背中を押してやれないものが、親だったりするものです。

 

親の前では力が発揮されず、他の人の前では活躍出来ることが本当に起きたりすることがあります。

親の前では、どこまでも親の手を煩わせ、困らせ、心配をかけさせ、面倒をかけさせ続けることがあるけれど、親がいなくなってしまうと、立派に働き、意思を示し、物怖じせず、人の世話まで焼き、頼られる存在として活躍することが出来るものです。

けれども、親がいなくなるって死ぬとき? 縁を切るとき?
どこから?

親が、子を子供として見なくなることが出来た時になります。

 

そんなことが出来る親はそうそうはいません。
ですから、成人式などで、別れを告げる儀式をするものですが、「幾つになっても子供は子供」と言われるように、40歳、50歳であろうと、70歳、80歳の親からは子に見ているものです。それがとんでもない弊害をもたらしているとも知らず、知らず知らずに子供を子供扱いのまま、子供の力を認めようとしない眼差しを向け続けてしまうものです。

 

なぜなら、親の目から未熟なままの子供にしか見えないし、事実証拠があるからです。
これは誰も反論出来ないものです。
「外ではよくやっているよ」
と、援護してくれる兄弟でもいてくれれば、まだいいけれど、家族全員で誤解している場合は孤立しかしないものです。見た手違いを修正するタイミングさえ得られないのです。家族全員から「出来の悪い子」という眼差しで閉じ込められている心を想像してみてください。

どこに行っても、何をしてても、うまく出来ないし、ミスコミュニケーションをして対立して、悪くなるばかりに終わる。それを相談しても「お前が悪い」と叱られ、怒られ、更にまた孤立する。「出来るの悪い子」と認知されているのだから、「出来の悪い子」を覆そうとするのは、家族の見立てを全否定することになる。家族にとっては、出来の悪い子に「あなたたちの私への評価は不適当です」と訴えられているようなもので、「はい、そうでした」と、今まで出来の悪い見るべき所もない子から反論を受けたら、素直に受け入れられるか考えてみるといいものです。

価値感や解釈を固定して持たれると、その価値感を覆そうとする働きを持つことそのものが喜ばれない関係性にあるものです。

 

とまぁ、小難しく説明してしまいました。

 

簡単に言い直します。

 

両親と、兄姉が、弟を「置いて行くしかない」と見立てていたとします。
理由は3つあります。
1,みんなと同じにしようとしない。
2,悪いことを正さない。
3,我がまま(自分勝手)に生きている。
こうした理由を経験に基づき結論として、家族の総意で「こちらの意向は、この先わかることはない」と諦めた無意識が働いている場合、この見立てに、弟は縛り付けられて、それに従った生き方をする。

そういう解釈の持ち方が一つあると知っていて欲しいというものです。

 

これと似た事例に、「お前が盗んでないだろうな」と、何か新しいものを持っていて、似つかわしくないという理由だけで、盗ったのではないか? という連想が働き、それを口に出して確認し続けると、言われる側は、「盗んでいない」と立証し続けることに辟易していき、それならばいっそ、盗んだことにしてしまい、盗みを働く人になっている方が、周りには安心させられるという思いに至ってしまうことがある。見られる姿になっていくというものです。

 

この現象は怖いものです。
それが身内から、家族から、「才能ないな」と、見られ続けてしまっては?
どうなるでしょうか?
そういう問いかけを説明しているのです。

 

実際ある事例を紹介します。

A:正しいことが出来るはずがない。
B:異論しか持てない。
C:頼り甲斐がない。
D:見下すことしか知らない。
E:言葉が通じない。
F:独り立ち出来ない。
G:逃げることしか出来ない。
H:寝てばかりいる。

このような表現を家族からの眼差しで見続けられると、その通りの人生を歩むという怖さです。

これを「自分のことは自分でなんとかしなさいよ」と、見てくれる人が、見ている姿を改めもせずに、封じ込め、閉じ込めたままにいながら指摘されても、その眼差しの中で自分を変えることが果たして出来るのだろうか? なんて問題を感じたものです。

 

まぁ、出来るのですけどね。
ただ、そのように見ている家族の眼差しを上回る眼差しを持つ必要があるというだけのことです。

 

自分が思った通りの人物になるのは確かなことだけれど、自分を見てくれている人の思い通りの人物になってしまうのも、また確かなことでもあるので、その辺りも知っておくと、人からどのように思われているのか? なんていう部分を探って行くのも、自分を改めていくには必要な要素です。

 

自分のことくらい、自分でなんとかしなさいよ。
それは確かにその通りだけれど、自分でもどうにもならない自分がいるのもまた確かなこと。

だから人に頭下げて、助けを求める力が必要なんですよね。
やってもらえることも大切ですしね。

 

ただ、人を頼るにも、疑いながら、助けてください、と言うのと、信じ込んで、助けてください、と言うのと、これで断られたら死ぬしかないと諦めモード全開で、助けてください、と言うのでも伝わり方というものは変わったりしますしね。そして、それぞれの言い回しでなければ、届かない相手もいますし。

 

ことばを紐解くと、奥が深すぎて困りものです。

 

色んな事がわからずに、苦しみに苦しんだ挙げ句、自分のことでしたから、自分でなんとかしましたよ! お母さん!!

 

人が放つ、無意識の相念はおっかないものです。

うちの母親からもそんな眼差しを受けて、思うように生きられなかったなんて振り返ったら見つけられますが、それもこうして自分の力で、そうした眼差しのおっかなさから逃れる術を見出したのだから、結果、母の言う通りに出来ている辺り大変なんですけどね。

 

正月以降、うちの父が私を認めてくれる発言が出て来るようになりまして、やっとこさこの世界に病んでいる心の人がたくさんいることをそれとなく感じ取ってもらったようであります。一人ひとり千差万別に対応していることが凄いようなことを話してくれて、やっとまともな会話らしい会話になったような気がしている。

 

心の事はとかく難しい。
どこまで行っても終わる気がしないほど、深淵なものです。
関わる人一人変わるだけで、世界が変わる。
終わりのない苦しみを感じてしまうようなものもあります。

 

それでも、毎日風呂を入って垢を落とすように、心のケアもそんな毎日やり続ける当たり前のものでしかない。

風呂屋さんなら、朝から晩まで風呂のことで仕事をしているように、カウンセリングをしているのだから、朝から晩まで心のことばかり考えているものだけど、職人ってば、そんなものですよね。

何をしていいかわからない人は、寝ても覚めても飽きずに続けられることをやってみるといいです。
意外に、寝ても覚めてもとなると、それほど好きじゃないってことに気づけますから。
それも自分のことくらい、自分で何とかすれば、見つけられるものでもある事例の一つです。

 

考えが足らんとか、自分を知らなさ過ぎるとは幾らでも言えるものだけれど、考え込むことも、自分を知ることも、結構ハードルの高いものだったりするからね。

やり方一つ、身につけるのに大変なものだったりする。

 

そんな自分を知る方法すら知らない人の為に、あれこれと書いていこうとは思っている。

まぁ、今度4/15だっけね、潮来市日の出にある、「くるむ」という店にて、マルシェが開催されるので、そこで出店させてもらうのね。しかも無料で!! チャクラ鑑定の簡易のハイグレード版を用意しようとは思っている。

その場で鑑定して、鑑定結果を書き込んで渡すもの。
解説が少ないから、それ以降はセッションでも受けてみてって、窓口的な要素のもの。
それでも、自分を知る切っ掛けになるものになる。

 

なんせ、自分を知るのは他人の眼を使うのが一番早いからね。
色んな法則やら、概念やらを超越して見つけたものの集大成となる簡易鑑定書を作るから、マルシェに来てね。

 

自分捜しの切っ掛けを与えられるものにしたいです。

またまた、心機一転で、一から出直していく気分で頑張る所存のまさみちです。
よろしくお願いします。

 

 

探していた自分はここにいた。

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コメント

  1. 他人や親の眼差しさえ、自分が創っていることだからと、行き場を無くしていました。

    私は人様の願いを叶えたいという願いを持っていました。

    今日、職場で私の送別会をしていただきました。
    先輩方が未熟な私を心配して、私の決心を変えようと必死で説教をされました。 

    「甘い考えで、覚悟が見えない」
    「親として子を護れていない」 
    「自分の勝手な生き方に、子供を巻き込むなんてことはしてはならない」

    私は彼らの願いを叶えるべく、彼らの思う通りの「心配されるような人物」になろうと、彼らの言葉を必死で聞き、頷き、「検討します」と返事をしました。

    勿論一般的な価値観だとわかっていますが、確かに先輩方からは私は未熟に見える証拠しかなかったかもしれませんし、何より愛情がある故の「心配」でしたし、その通りだとも納得したので、真実を伝えることは裏切ることになると思い、言いませんでした。

    私は私を心配する人達の思いやりに応え、その通りだと安心させる必要があると思いました。

    心配する先輩が見ていたのは仕事ができない未熟な人間の私。
    それが全てでは無くてもあらゆる面でそうであるなどとは、仕事に向かう姿勢から想像できるものだということは、大いに納得できることでした。

    しかし、心配する先輩方はそこまでしか見てくれていませんでした。

    何故未熟なままなのか?は追求しない。

    未熟なのは、精進しようとしない、意識が低い人間だとして、そんな人間は見下されるべき人間なのだとでも言うような価値観がありました。

    「意識が低い」原因は?までは想像しない価値観でした。

    先輩方の眼差しを上回る眼差しを持つ必要があったし、それを証明させる姿を見せられなかった自分の浅はかさを責める自分を何ともできなかったことに対して許していませんでした。

    自分はよくやってる。
     
    そんな言葉を自分にかけることを忘れていたなぁと思いました。

    1. 噺家まさみち より:

      自分の身につけた知識を、自身で覆すことの大変さは、自分の考え方だけでは出来ないことに気づくことも大切な道です。
      相手そのものになる感覚を得られたとき、「自分も同じことをする」など、全否定する感覚から全肯定する感覚に切り換えられたとき、見え方は変わり、解釈は深まるものです。

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