何をしているのか?

心というものは、捉えどころのない
ものであります。
ことばのカウンセラーまさみちです。
何か有意義な話を残したいと
思いつつも、日々思案に明け暮れて
終わってしまいます。

 

取り分け、まさみちの頭の中の
一つのものの見方を観察したところ
このような図になったので、
紹介してみることにしました。

意識をシンボル化すると
十字架となるので、
十字架の十の字は
心を要約して表せる
最小単位となるのかな?
と、想像するものです。

知識で学ぶのではなく、
体感覚で掴み取って、
それを図形に表わすと
十字架になってしまった。
ということです。

 

根底と言えばいいのか、
最善の意識の現われ
とでもいうのか、
8つの十字架があり、
4つの十字架があり、
2つの十字架があり、
1つの十字架があり、
1つの十字架がある
ように捉えています。

これらは独立しており、
相互に干渉しあって
いるものの、個として
存在している為、
他者の干渉を受け
入れない頑なさが
ある時があります。

閉じた世界と表現すると
わかりやすいかも知れません。
引きこもっている。
心を開いてくれない。
など、この世界が
食い違っている場合、
どんな説得も通じず
対立に溝を深めるだけ
となってしまうものです。


個と全は一体であり、
相互に繋がり合っている
というもので、
見るもの見られるものは
同時に起きているものです。

量子力学において、
二重スリットの実験で
目撃によって現象が
変わるというのは科学で
証明されているので、
人が持つ認識も、
見る人によって解釈が
違うという問題が
あります。

 

信じた人にだけ効果がある。
というのは、プラシーボ効果
という現象として
認識されているもので、
大抵の薬などは、この偽薬
と比較しても、それ以上の
効果をもたらせる力を
薬に有するようにするのが
極めて困難な課題でもあります。
つまり、信じない人でも
薬を飲めば効果が得られる。
というものです。

 

ただ、目撃があるので、
信じている人が呑んで効果が
あったとしても、
その周りの人が薬なんて
という信じない心で、
薬の効果を信じて服用し
続ける人を見ても、
呑んでいる人の効果が
失われていくなんてことが
まことしやかに起きてしまう
というのが量子力学で
あるわけです。

 

人は見ている範囲でしか
信じず、自身の手で実験し
検証し、実感を持って体感
しないといけないのですけど、
二重スリットの実験も
私自身が行ったものではなく、
ネット情報が源なので、
人の言っていることを
鵜呑みにしていると
言っても過言ではありません。

 

人が持つ知識は、大体は
そんな又聞き的要素を含んでいて
研究者が発表したものを
シェアして、教育現場などに
活用しているというものです。

 

まさみちは、そうした外側
から得られた知識を元に
研究者になって、自分独自で
心のことを探求しているので、
証拠や情報源が外に示せるよう
な論文の発表や、研究成果の
報告をしていないことが、
時に問題を抱かせるような
誤解を生むことになることも
あります。

これまでは、プラシーボ効果
としての、信じている人には
相乗して効果が得られる
ことを届けていましたが、
これからは、信じていない
人でも、直接会って
会話してみるというと
誤解が紐解け、信じられる
現象体験が得られるような
関わりが出来るようになります。

 

そうは言っても、こちらが
押し付けるようなことは
しませんからご安心ください。


 

大切なことは、信じた結果しか
現象として体験しないものだと
伝えたいことです。

信じるとは、その出来事と一体化する
ことであり、健康や元気さと一体
となれば、いつまでも
若々しく、心地よく、
くつろぎの中で、したいことが
出来、望まないことは
見ることも、起きることもない
のが本来の願いが叶う状態
ですが、そうなっていない
現実が、理解を遠ざけ、
混乱し、苦しみを生み出し
続けているものです。


 

要点として、今日のブログで
伝えたいことを言い改めると、

「何でも自分の思い通りにはならない」
と、そう考え、人を責め、より良く
改革していこうとする人を悪鬼だとか
独裁者だとか、自分の姿における
隠していた影の心を、その相手に
見出して嫌い続けても、痛みを
伴うのは影の相手ではなく、
実体のある自身の方だと気づいて
ください。と、アナウンスするものです。

「影と一つになろう」
と、明かりに照らされて、伸びる足下の
影は、浮いていれば離れていられるけれど、
地に足を付けた瞬間一つに繋がってしまうため
いつまでも、足を付けることが出来ないでいる。
何かにしがみついて、
足を浮かせていられれば、平気だと思って
いても、その何かにしがみついている
ものも、影とは一つに繋がっているから
どの道既に繋がり合っている事実がある
ことに気づいてください。というものです。

「自己矛盾に殺される」
弱い者は守らなければならない。という理由と。
強くなるために、弱いままではいられない。
という理由は、矛盾しており、大切な人や自身を
苦しめることになる理屈がわからない人がいる。
弱い者を守る為には、弱い者が弱いままでいる
ことを望む為、守られる側としては、ひどく窮屈で
不審の眼差しか与えられず、見捨てられている
役立たずのような絶望の中に閉じ込められている
感覚に陥っていることには、気づかないものです。

私は弱いから守って欲しいと、願っている人で
さえ、守られ続けられるというのは、束縛を
意味し拘束し続けることをする為、守っている
対象が精神的不安定になり、守っている人を
責めるわけにはいかないので、その矛盾をついて
救い出してくれる人を責めることで、
弱者を守り続けることを正義だと証明し続ける
ことが立証出来ます。

けれども、守るほどに、弱者は弱り果てて行き、
救い出そうとする人を悪人と非難し続けても、
現実は好転することはなく、強い人が弱い人を
守るという構図では、誰も幸せにならない
現実を認める勇気が必要になります。
守っている相手が実は強く、守ろうとしている
自身の方が実は弱かったとするなら?
と、仮説を立てられ、それを実験して、
立証する勇気がある人に、心理的ストレスの
抜け道があるものです。

つまりは、守る側が実は弱いので、守ること
など出来ないと気づき、守っていた見た目弱者
が実は、守る必要のないほど強かったから
守らなくなったら、互いに元気になれる
可能性を検証してみるといいのです。


 

「あなたはまだ未熟だから、強い私が
守ってあげるからね」と、言われて、
「嫌だな」と感じられる人は、弱者を
見かけると、守ってしまい、その相手の
強い力を奪い続けて、貧弱にさせてしまう
可能性があることに気づいてください。

自分がされて嫌なことを、人にしている
矛盾に気づかなければ、問題などなくな
りません。

もっとも、その矛盾同士で連携している
者たちに、本質をついて知らせ、
「あなたが悪い」と事実を言ったところで
「人のせいにするなとあなたが言った」
と、これまた弱者を守る理論で切り返す
ことになるので、価値観の違いや歪みを
正す切っ掛けが得られません。

人を嫌いになることも、元を正せば
弱者である自分自身を守り抜くため、
相手を遠ざけて安全を確保する為に
するものですが、自分がいつまでも
弱いままで居続けることを許容する
限り、嫌いな人は嫌いなままでいい
という理論で、自身の弱さを立証し
ていくものとなります。

もし仮に、嫌った人を許したり、
好きに切り換えてもいいとすると、
これまで嫌っていた自身の解釈や
価値感が崩れて、入れ替わって
しまうため、正義で弱者を守って
いた心が、悪意で弱者を守って
いたということにもなりかねません。

すると、嫌っていた相手が悪意だと
感じていたものが、正義であると
改めなければならない屈辱が
発生してしまうため、人の心は
どこまでも、敵意を無くすことが
出来ない軟弱なものだと位置づける
ことが出来ます。

自分が信じ、周りを信じ、論理的
正しさでもって、「あの人が悪い」
と責め立てていたことも、
自分を疑い、周りを疑い、論理破綻
している歪みはないかと確かめる
誠実さと裁定する知性を有する
なら、もしかしたら「あの人の方が
より良い解決策を持っている」と
したものの見方を見てもよいものです。

結論は、先入観や思い込みで、「あの人
は信用ならない、何故なら、人と違う
価値感を持っているからです」となり、
違う価値観=悪意、と扱われている
なら、和解の道も、交渉の余地もなく
なり、力づくや、相手の悪く見えそう
な部分を執拗に世に広めて共感を得て、
多数の力でねじ伏せて、意に添わせよう
とすることも正当化出来てしまう
発想が隠れていたりするものです。


 

弱く見えるだけで、実は強い。
強く見えるだけで、実は弱い。
どちらも併せ持っているなら、
どちらとも見てあげればいい。

金銭に弱い人は、金銭をちらつかせたら
なびいてしまうものですし、それに従い
言うことを聴き続ける姿で
安心と安全を手にして、平穏無事が
保たれているなら、それが答えの
ように見えてしまいます。
けれども、自立を志し、金銭に
弱くなくなり、自身で稼ぎ出せる
力に気づいた人を金銭をちらつかせて
言うことを聞かせることは出来なく
なります。
それはこれまでの安心と安全を崩し
脅かし、その価値感で安定を引き継ぐ
ことは出来ないことを教えてくれます。
誰しも、役立たずのように金銭をせびる
生き方をするよりも、自身の力で
人の役に立ち、自身で稼ぎ出して
家族や自身を養うことに胸を張れる
というものだからです。

金銭を稼げない弱者は、金銭を保有する
裕福な者に支配され続けることが幸せだと
信じている者は、そこに安らぎを見ます。
それがより弱くなるだけで、いつか
強くなって自立出来ると思っていても
その中では自立出来ないものなのです。
よって、決別して金銭の甘い誘惑を断ち切り
困難な道を突き進むと強い姿を見せて
行くほどに、金銭を保有していた者は
退けられ、不要な扱いを受け、
価値のないような気持ちに陥る為、
金銭を保有するものも、また弱者である
ことが証明出来る訳です。

人の心は弱く、そして強い。
相対する二つの相対する心が一つに同居
することを喜びに変えればいいの
ですが、それには自身の弱さを
知らなければなりません。
また、強いと知らなければなりません。

人を許せない心は弱い心です。
人を許す心は強い心です。
人を信じない心は弱い心です。
人を信じる心は強い心です。
人を責める心は助けを求めるサインです。
人から責められる心は弱者から
強者への救難サインです。
人を裁く心は強者から弱者を許すことです。
人を裁く心は弱者から強者を信じることです。
人に審判を下す心は弱者が強者だと許すことです。
人に審判を下す心は強者が実は弱者だと信じたからです。

人を愛する心は、守り、庇い、従うことで
より弱者を弱者のままに育てあげられる
ものです。守られ、庇われ、従われた者の
方は、苛立ち、悲しみ、嫌われ者になる
道を歩きます。

愛されているのに、認めてもらえない、
力になってくれない、怒鳴られるばかりで
みんな酷い人だと感じる社会として嘆く
ばかりの人生になります。

人を愛する心は、恐れなく、比較することなく、
取り引きすることなくすることで、強者を
強者として信じる力、知る力、与える力を養い
弱者を支え手放し、教え許し、共に歩み笑わせて
行くものです。不安なく、差別されることなく、
卑屈になることがない者の方は、喜び、嬉しく、
慕われる者になる道を歩きます。

愛されているから、わかってあげられる、
力を尽くして共に苦しみを共有していき、
泣いて怒って塞ぎ込む人にさえも共に生きられる
優しさで接してあげられる人生になります。

 

人のせいにしていなくても、
自分は自分、あなたはあなたと、
他者の価値感や解釈を受け入れたくない
と、頑なに持論を崩さない人がいます。
自身が弱者であるから、強者の可能性を
排除してしまうのです。

強者は、勇気を持ち、
人との対話をやめません。

強者は、肯定的に物事を捉え、
否定を無くすことに全力を注ぎます。

強者は、意欲的に自ら進んで
価値感を変えられると、
自分の心が解釈によって
感情が彩りよく変わることを
知っています。

強者は、許しを与え、仲良くする
工夫をし、改善することだけを
考え、共に歩きます。

強者は、優しさが泣くほどに
辛い哀しみの上に成り立つもの
だと知っており、挫けた者の
気持ちそのもにいつも浸り、
代わりに泣くものです。

強者は、人の数だけ感じ方が違う
と心得ており、その人の目を
見て話し、わかるまで付き
合うものです。

強者は、厳しいことにも素直に
従い、不平が浮かばず、献身な
気持ちで今を生きる事を知る
ものです。

強者は、自身が納得するだけで
なく、周りも納得出来る
道を模索し続けて、最後にみんなが
笑ってから笑うものです。

強者は、いつもみんなで笑える
ことを考え続けている人です。
強者は、どんな時もあなたの
側にいられるように今できる
最良なことを見つけ、動き続ける
人です。

強者は、弱者には理解されず、
嫌われて、許されず、責められ、
理不尽な扱いを受けても、平気と
笑って次に進める人です。

強者は、いつかわかり合えると
どんな苦境からも立ち直り、
一人でもみんなを笑顔に変えて
見せると、まず自分を笑わせ
ようとするものです。

強者は、いつも自分の中にいます。

 

弱者は、知らないから僻みません。

弱者は、無いから嫉(ねた)みません。

弱者は、痛いままに出来ないから
直ぐに考を改められます。

弱者は、理屈を知らないから
信じてしまいます。

弱者は、その先まで考える力が
ないので、現実をそのまま
受け入れます。

弱者は、もらえるものだと期待
さえ持ちませんから、毎日が
感動の連続になります。

弱者は、守れませんから
敵対することを知りません。

弱者は、同じ過ちかどうかも
比較出来ない為、言われたまま
にしてしまいます。
(関わる者と同じ姿を取る)

弱者は、賢さを持たぬ為、
愛する者と共にどこまでも
堕ち続ける優しさで包みます。

弱者は、不当な扱いなど
判別出来ませんから、
不快になることを知りません。

弱者は、恥ずかしさを
持ちませんから、
新しいことに挑戦し続ける
無秩序から成功を見つけます。

弱者は、後悔することに
気づきませんから、
楽な方へ突き進み、
幸せでいられる居場所で
くつろぎます。

弱者は、執着できませんから
思いつきで生きています。

弱者は、恐れる前に
踏み出して越えているので
困難が訪れません。

弱者は、欲しいものが
感じられませんから、
与えられるものをそのまま
受け取るので、感謝の
気持ちが耐えません。

弱者は、怒りを覚えられない
ため、うまく気持ちを
伝えられないので、
いつも譲られてばかりいて
怒りようがありません。

弱者は、ちっぽけなプライド
さえ持ち合わせないけど、
強者が弱者になろうとする
(弱い者いじめなどする)のは
弱者でいられなくすること
なので、違うのではないか?
と、強者は強者でしょと
本来の姿を教えます。

弱者は、先々を考えず、
周りの気持ちもわからない
為、何かを比較することが
出来ませんから、やってみて
実感する生き方しか見出せません。

弱者は、弱さ故に正しさを
主張もせず、状況の変化を
受け入れて、在り方が変わり続ける
ことさえも柔軟に取り入れて、
笑える姿のままでいます。

弱者は、愛されないとわかって
いるので、何も持とうともせず、
何も知ろうともせず、何も決めて
行こうとも出来ないため、
その空っぽな心に、みんなからは
愛が注がれて、豊かさで満たされ、
楽しみに連れ出され、意味のない
遊びを共有してくれて、飽きること
を知らない、不思議な幸せの
中にいられるものです。

 

よって、強者と弱者が同居する者
が、愛ある人となり得ることを
論理的に解説してみました。

矛盾があるが故に苦しみ、
矛盾を持ち合わせることで幸せ
でいられるのは、解釈の違いがあり、
体感による気づきの過ちが
自身や周りにいる人を苦しめている
背景でもあります。

あなたに愛はありましたか?
自問自答して、答えを出していく
ものでも、情報はいつも外側(他人)
から届けられるものです。

わたしも、外側からですが、閃きという
大いなる叡智から届けられたもの
で書き記しているものです。

そのまさみちの頭の中のイメージを
図式化して、解説を伴わせ、
論理的に実感が持てるように
表現してみました。

 

感想は人それぞれです。
他の誰かが納得しているのか? と
余所の反応を見てからでないと、
信用出来ない人は、他人なら
信用するものです。

利害関係がない情報は
中立に見やすくあります。
それでも客観的にならないのは、
量子力学で解説されているように、
主観の枠組みから抜け出すことが出来ない
世界で生きているからです。

理解してしまったなら、
自分の持ち合わせている知識で、
同上のことを他人に解説出来る
力を有しているかどうか感じてみる
と、いかに自身が何も知らないまま
日常を過ごしていることも理解出来ます。

結局、人は自身をどこかで
理解されたいもので、自分を
見つけて欲しく、
それを探している為、
このような情報と出会える
運命的な導きとも、出会いとも
言えるものなのです。

これが自分の人生で仕組まれていた
計算ずくのものだとするなら?

あなたは運命論を信じますか?

と、思わず鼻で笑いたくなる
ような臭い台詞を、真面目に取り上げる
のか、嘲笑したままにして、
自分には役に立たない文章だった
と幻滅するのも、書き手側の
作為された操作だとするなら?

もう、何がなんだかわからなくなる
ものです。

 

人は気持ち良く騙されたい。
が本質ではないか?
と、最後に投げかけて終わりたいです。

あからさまに、騙されるとわかっていて
その中に飛び込む馬鹿はいないものです。
でも、飛び込んで本当に幸せになり
豊になり、楽になるなら、踏み込むもの
だと思うのは自由ですが、実際に
体験する者は、恐怖しかなく、
狂気としか思えず、破壊しかされず、
痛めつけられるしかないとしか思わず、
散々な目に遭うに違いないと、自身が
持ちうる最大級の悪意を騙そうとする
相手にぶつけて敗れないように意地を
はるものです。

最悪なのは、騙されて幸せになってしまった。
というオチに辿り着くことだけは、
絶対避けなければならない事なのです。
そんなことが起きたら、抵抗し続けて
来た数々の出来事が全部不意になって
しまうし、自分の目が曇っていたと
証明されてしまうから、到底認められない
訳です。

 

悪い奴は悪い奴のままで
いてくれないと、悪く見た側が
悪者になってしまう逆転の
現象など体感したくない
のです。だからどこまででも
人は意地を張り通し、
「謝らない」と責めることしか
思いつかなくなるのです。

信用ならない数々の証拠を
並べ立てるのは正義か悪意か?

信じることに根拠も証拠も
要らないとする無垢なる
優しさがあるのか? 無いのか?
と、問えば優しさなど
持ち合わせることがない
と自覚出来るというものです。

最終的に至る道の果ては
行き詰まりですから、
自滅するだけです。

弱者を守るツケの支払いは
とてつもなく大きいもの
となります。

近くに居る者にはわからず、
遠くに居る者にしかわからない
物事も心の世界にはあります。

 

人を悪く見ようとして、
粗探しなどするような
心の持ち主に、
健全な解釈や誠実さや
心あたたまる優しさが
育まれる筈もありません。

見せかけだけを大事にし、
誰が見ても申し分ない
立ち振る舞いを
律する心を持ち合わせても
あなたをそんな風に
育てたのは
紛れもない親です。

そして弱者だと思わされ
強者でいられなくさせ、
他人の欠点ばかりをついて
自身の立派さばかりを
誇示しようと育てられた
ツケは今支払われ
なければなりません。

屈辱に歪められた
精神性を正すときです。
あなたは強者なのです。

誰に従い、誰と仲良くし、
誰に何を伝えなければ
ならぬのか。

あなた自身が自分を
裁いて許してみたら
答えは出て来ます。

 

言う通りにすることを
やめられたとき、自立して
一人歩きはじめられます。

 

 


個人セッション募集しています。
7/2(月)、7/10(火)、7/11(水)
7/15(日)、7/23(土)、7/26(火)、7/28(木)

以上の10:00〜20:00(21:00終了)の間
個人セッション枠あります。
1枠/50分
初見の方は、1枠申し込みした際に
1枠無料相談時間を設けております。

お問い合わせください。
あなたの見たいものを届けます。


SNSでもご購読できます。

コメントを残す

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。